第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
農村経済更生運動
自力更生村を訪ねて 比企郡七郷村
繭も安い、麦も安い。行きつまった農村経済は、今後どうなって行くのか。底知れぬ悲観論者の多い中に、全村一致、奮然として自力更生にめざめて、五年後には、なにもかも打って変ったやうな模範村を建設しようといふ、比企郡七郷村の実況視察に出かけた。
鬱陶しい梅雨空の中を、熊谷小川間の縣道を一走り『この山の向ふが七郷村で……』と教へられるまゝに、秩父連峰の裾ながくうねった小山つヾきの麓をめぐって、七郷村役場へ辿りついた。この村は富の程度が比較的平衡して、一戸当りの耕筰反別、田が四反七畝、畑が四反八畝、際立って貧乏人のない代り、徒らに遊惰菌をまき散らすやうな、豪農もない、しかし大正八、九年の好況時代、農村一帯を風靡した投機的思想が容赦なくこの山村にも浸潤して自づと不真面目になった。個人主義にも傾いた。小作争議など比企郡のトップをきって、隣村の八和田村までも困らしたといふ始末。昭和六年頃には、全村の負擔ザット二十万円、預金十二万円、差引八万円の赤字を出した上に、二十三町歩余りも他町村の人に侵略されたといふ逆転状態となった。
『コレは大変だ!』『安閑としてをられぬ』『七郷村の非常時だ』とばかり、心ある篤農家連から叫ばれ出されたのが、つまい今日の経済更生計画となったもので、それだけに真剣味もあり、ハチきれるやうな熱と力の奮闘振りである。
一体この村は総戸数五百五十一戸、人口二千九百七十九だが、総面積中田が二百四十七町歩、畑が二百五十七町歩、山林はザッと田の倍額に当る四百八十町歩といふ山村なので、自づと自力更生には蓄農方面には重点をおいて、まつさきに農事経営の改良、つづいて同購販による経済部の確立、生活の改善、教育の作興等々を目標に、昭和八年五月一日、雄々しくも全村民の宣誓式が調印されたものである。
経済更生上特異性の多い一、二断面を描写すると、村では尋常四年以上の生徒は、必らず自宅に一人一頭の兎を飼ってゐる。また女子青年団では一人三頭主義で、結局各家庭では、養鶏三十羽、養兎八頭、養豚三頭を飼ふ事になってゐる。現在村内には三ヶ所の育雛場があるが、毎年三百羽乃至五百羽の雛を全損に実費配布の計画まであり、どこの家庭にも、白色レーグホーンが村の更生を寿くが如く勇ましい叫びをあげ、満一年後の今日、全村の収入は養鶏で約五千円、養豚で一万四千円も増加、その反面における金肥の如き、五ヶ年後には見事半減して、これに代る自給肥料の増産をはかるといふ計画である。
また自家用醤油の如きも、全村二十二ヶ所で組合醸造を開始、一昨年までは三千四百円からの醤油を購入してゐたが、行末その大部分を自給自足の方針で、一方耕地の少ない水田に二毛作を励行、宅地には毎戸、梅、栗、柿等を各三本平均に栽培、お互に共同販売を励行、すべてに冗費を少くして生産を増加するといふ方針である。『幸ひ今年は麦も米も繭も円滑に共同販売が行はれまして、最近小麦も四千俵、日東製粉へ共同出荷した』といふ話であった。
特にふってゐるのは、産業組合の共同精神を幼ない児童に植ゑつけるため、小学校内に信用組合購買部が設けてある。組合長以下役員は先生方だが、四年級以上の生徒側から、評議員を選出、学用品は一切、村の産業組合で購入するといふやり方。さらに貯金奨励のため、学校では毎週土曜日放課後、一定の時間に縄なひを実習、月額十円以上の貯金をつづけてゐる事である。
『何事も協同の力です。これが本当にめざめた農村のとるべき道でした』と、村農会の田畑指導員【田畑周一指導員】はそれからそれと話はつきない。実行上一番なやんだのは各自家庭における更生日記の記帳で、比較的若い人達は別として、年寄り連はやゝもすると複雑化した記帳を嫌ったものであったが、メキメキと更生する村の現状を見て、昨今では漸く『なるほど、今までおれ達は無提灯で野道を歩いてゐたのだ』と述懐してゐるほどで、いよいよ役場前には、三十坪あまりの共同作業場や、農業倉庫、共同醤油醸造場まで新築するといふ意気込みである。
面白い事に、村には村治上一切の政党的色彩がない。県道が一本もない。勿論鉄道線路もない、電燈のついたのもつい二、三年前で、ないもの尽くしのやうだが、料理店が一軒もない事だけは、村人の不便を忍ぶ誇りの一つである。村が経済更生にめざめたのは、農学校【熊谷農学校】出身の若い人達による農事研究会の座談会が動機となったと、比企郡農会の横山農林技手のお話。さういはれゝば当の栗原村長さんも【栗原侃一(かんいち)村長】、熊谷農学校第四回卒業、新人、同村随一の育雛家藤野昇君も昭和四年の卒業生、その他中、農学校卒業の青年が二十数名も数へられ、何れもその中堅となって、自力更生に邁進してゐるのはたのもしい。
村長さんの案内で、字吉田地内になる藤野君の育雛場を見学したが、養鶏一千羽、当年二十五歳の青年藤野君が、学校時代の習得を実地に活用、素晴しい成績をあげてゐる。四年前名古屋から十六円でレーグホーンの雌雄雛を買ったのが元で、その後生めよ、殖せよの鶏鳴、鼠算となって、今では鶏卵の実収年額二千二、三百円、飼料千五百円を差引いても、純益八百円は確実、しかも自作田畑三町あまりが、肥料買はずの豊作といふから大したものだ。昇君成功の秘訣は『鶏舎が崖の上で高燥、羽虫一つわかないこと、朝夕の労働を惜しまず鶏の心になって愛養すること、専門的に孵化事業で手を延ばさず、孵化は本場の名古屋で、育雛は手元で副業の本旨を没却しないこと』等々で、雌千羽に雄四羽、鳥の精力の偉大なのと、青年昇君の奮闘振りには全村民が感激してゐる。
かうして七郷村はまさに輝かしい更生の途上にあるが、どんなに着眼や組織がよくとも、かんじんの心臓が弱くなってはと、村長さん以下各幹部は目下その統制連絡に大童だ。石の階段構へ、一寸見たところ不動尊かビシャモンテンさまのやうな役場の中で、当の村長さんは、全身ただ更生の意気に燃えてゐる。『お賽銭まであげませんが、よくこの建物は不動様と間違へられましてネ』と苦笑しながらも、五年後の偉大なる神通力に多大の期待がかけられてゐた。
北條清一『武州このごろ記』301頁〜306頁 日本公論社, 1935年
筆者は東京日日新聞社浦和支局長