第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
農村経済更生運動
1929年、アメリカにおける株の暴落を発端として世界恐慌が始まった。日本にとっては昭和4年のことで、昭和恐慌ともいわれている。そのなかで農村の恐慌は激しかった。米や繭をはじめ農産物の価格が急落した。その上副業の労賃も低落し、失業して農村に帰る人も増え、農村の窮乏が深刻になった。各地で小作争議が盛んに起こってきた。政府は国内の危機の打開をめざして、対外的には1931年(昭和6)柳条湖事件を起こして満州事変に突入し、翌年には満州国を建設した。そして農村救済の名の下に満州移民政策を推進し始めたのもこの頃からである。
こうした状況の中で政府は、国内的には1932年(昭和7)に疲弊した農村の救済をめざして経済更生運動に取り組むことになった。埼玉県ではこれを受けて農山村経済更生委員会(会長 県知事広瀬久忠)を発足させて、同年度経済更生計画樹立町村として30か村を指定し、1933年(昭和8)年度には35か村、34年度に31か村、35 年度24か村、36年度32か村、指定は計152か村におよんだ。
七郷村は1933年に経済更生村に指定された。七郷村経済更生委員会の委員長は栗原侃一村長であった。青年団長田畑周一が技術員に採用され、彼に阿部豊作、市川武一、藤野菊次郎が協力して運動の推進にあたった。彼らは熊谷農学校出身で、経済更生運動を中心になって担った。翌年34 年には「比企郡七郷村経済更生計画」がつくられ、5月1日が更生記念日に定められた。この計画に沿って、生活改善とともに農産物の増産とその統制が打ち出された。増産については自給経済を目標として灌漑用水の確保(特に溜池)、農作物の品種改良などによる増収、養蚕の充実、肥料の自給などが計画された。共同作業所、採種圃、指導圃などもつくられた。統制については米・小麦・蚕繭などの共同販売。生産用品・家庭用品などの共同購入が行われた。
農家小組合は農事実行委員会として再編された。第一農事実行組合、第二と番号をつけ、七郷村に22の農事実行組合が成立した。
七郷村の経済更生運動は1935年(昭和10)に富民協会から、36年には帝国農会から表彰された。
七郷村は1936年(昭和11)に経済更生特別助成町村に指定された。この助成金によって運動は財政的な裏付けを持つことになった。農村更生協会の資料によると、1000円以上が投じられる計画になっていたのは、農道の改修、簡易診療所設置、貨物自動車(オート三輪車)設置、共同作業場設置、電話架設、溜池の新設及び改修,用排水路の新設、共同収益地設置、共同集荷処理場新設,堰の改造、堆厩肥舎新設、灰置場新設、暗渠排水設備、堆肥盤の設置など。役場前に時報(サイレン)の設置。
しかし計画は出来たが、翌1937年(昭和12)に始まる日中戦争で日本が中国との全面戦争に突入すると、国民の物心両面における総動員体制が必要と叫ばれるようになり、経済更生運動は戦時体制のなかに組み込まれ、計画は縮小されていった。
七郷村大字古里(ふるさと)の馬内(もうち)地区について、区有文書を1936年(昭和11)の経済更生の取組みを見ると、国、県、農会などの補助と自己資金によって地域の共同集荷場・共同収益地・種畜場の設置や、個人の堆肥場や豚舎の建設・改造などが行われている。
共同収益地設置 1反 開墾 奉仕人夫 70人 国庫助成金 40円
簡易堆厩肥舎建設 県費補助 7円 自己負担63円20銭
堆肥舎改造 村農会補助1円 自己負担 5円
豚舎改造 自己負担 5円
共同利用種畜場設置 国庫補助 15円 組合負担69円40銭
豚舎改造 自己負担 21円20銭
これらの事業は日中戦争の前年の昭和11年度に行われた事業だったので、予定通りに取り組まれ完了届けが出されている。
この他に、1936年(昭和11)に農事実行組合員各個人に対して、経済更生のために作成させた「個人計画書」が残されている。
その主な項目を挙げてみる。
一 我家ノ更生目標 一 改善ノ要点(生産 消費 販売 金融等)
1 家族及農業従事者 2 土地 3 土地利用 4 生産計画 5 自給計画 6 現金収支目標 7 貯蓄計画 8 負債整理計画
最初の「我家ノ更生目標」を見ると、「負債整理」を上げている家が5戸、その家の「改善ノ要点」を見ると2戸が「消費節約シテ貯蓄ヲ実行」、2戸が「多収穫ヲ得ル事、支出ヲ減ズル事」、一戸が「消費節減、勤労増進」と記している。他の14戸は無記入。
算用数字の項目は、それぞれについて現在(昭和12年)と5年後の更生目標(昭和17年)の欄に数値で記入するようになっている。(全部で12ページ)
これを見ると、各家の家族構成、自作小作の状況、生産計画(田畑、養蚕、畜産、林業その他)、現金収支(農業収入、農事外収入、家計費など)、貯蓄計画、負債整理計画などが分かる。12ページにわたる各項目を記入するのは大変なことであったと思われる。そのためか昭和12年の現在欄はどうにか記入しても、5年後の昭和17年の更生目標の欄は空欄が多い。厳しい状況の中で5年後の目標までは手が回らなかったのではなかろうか。
19戸の農家分の資料があるので、ここでは1937年(昭和12)の現在欄を通して見えてくることをいくらか紹介したい。
19戸のうち、自作が2戸、自小作が12戸、小作5戸。田畑桑園を合わせた各家の農地の状況(自作、小作を含めて)は、1町以上が9戸、1町未満で5反以上が8戸,5反未満が2戸。全体の平均が9反1畝になる。現金収入の内訳は、田畑、繭、畜産、林業、農業外収入などから成り立っているが、養蚕の占める割合が非常に多く、それ以外に小作の家では他の俸給や労働賃金にかなり依存していることが分かる。農村経済が窮乏していても田畑での増産は簡単には出来ないので、繭の増産や畜産にも精を出したり、賃労働に依存する農家が多かったためと思われる。
最後の「負債整理計画」を見ると、16戸が銀行その他に負債を負っている。借入先を見ると、自作農資金国庫、日本勧業銀行、忍銀行、七郷信用組合、産業組合、簡易保険、親戚、その他などとなっている。利息は1割が多く、最高が1割5分、1割2分、1割1分、1割以下では9分、8分、6分、5分などがある。各家の負債額は、4400円を最高にして、3000円代、2000円代、1000円以下は最小50円まで多様である。負債のある16戸の負債額を合計すると18,229円になる。これに1割程度の利息がついている。銀行から1割の利息で100円を借りているケースもある。現在とはお金の価値が全く違っている。この負債が当時の農家に重くのしかかっていたのである。「個人計画書」第1頁の「我家ノ更生目標」に「負債の整理」と書いたのは先に述べたように5戸に過ぎなかったが、この最後の項目の負債状況を見ると、19戸中16戸が額の多少はあっても負債を抱えていたことが分かる。肥料の購入のために資金を借りているケースも見られる。政府が経済更生運動を起こさざるを得ない農村の窮状が浮かび上がってくる。