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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第3節:農耕・園芸

はじめに  田畑俊夫

 比企丘陵の合間をぬって流れる市の川を遡ると嵐山町大字太郎丸のところで、嵐山町大字吉田、越畑、勝田、杉山、広野、太郎丸集落の谷水を集めて静かに流れる延長約4キロメートルばかりの小さな粕川と合流します。
 この川は昭和59年度より始まった護岸改修事業により一級河川部分約3キロメートルのほとんどが整備され、10箇所あった堰も圃場整備計画に合せて5つの堰に統合されました。
 そして今、粕川沿いを中心として周辺の宅地までも含んで始まったほ場整備事業により、その全ての様相が変わりつつあります。
 太古の時代より粕川辺の人々が、自然との協和と戦いの中で、汗を流しながら一鍬一鍬切拓き培ってきた農地、常に幸せを夢み繰返されてきた生活の歴史のロマンを求めて、つれづれに散策しながら粕川沿を中心とした人々の生活を知る方々の話をまとめてみました。
 後世への生活継承の一里塚となれば幸いです。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)1頁〜2頁

粕川のほとり  田畑俊夫

 山ともつかぬ丘陵地帯の合間をぬって、川とも言える程もない小川を集めて流れる粕川とその流域の一帯は、古代、中世の頃までは赤松の密林と雑木林でおおわれ、土地も痩せて水も乏しく、人の住めるところではなかったと思われる。
 しかし、丘陵で自然の景観は素晴らしく、谷や地形に沿って山裾に小さな集落がいくつかづつ散在している。ここは多くの伝説、歴史ある静かなむら里なのである。
 今日、兼業農家が多くなり家のたたずまいも近代化されてきているが、祖父伝来の家をそのまま残している農家も多く、谷の耕地に抱かれて林や森を背にした茅ぶき屋根が点在してのどかな日本画のように美しい。
 高度成長時代に粕川下流の市野川合流地域に整然とした新しい街が誕生した。
 ここはもと谷の水田地帯であったところを埋立てて住宅地域にし、今は八百戸の純然たる都会風の街になっている。
 道路は都市計画にもとづいて建設され、完全舗装、上下水道も完備されている。画一的な家並、カラフルな建物、村の中の住宅街を成している。
 川畔の牧歌的な集落の感覚は見られなくなった。
 粕川は山の沼(溜池)から谷の水田を潤おす用排水路である。念願の河川改修も殆ど完成し写真のような立派な川になったが今も旧堀のところどころに昔の面影を残している。
 かってこの川は大人も子供達にとっても絶好の魚捕り場であった。
 昭和初期の川端に、当寺青年団が率先して梅の木を植えた。梅をとって漬物とした。大事な副食であったと聞いている。
 今は完全な排水路と成ったこの川をどう利用するかが大きな課題となってきた。
 それは水田基盤整備事業と集落の農家の農業経営をどのようにマッチさせてゆくかである。
 この地域の枝道は中世の昔から発達したもので信州、上州、北武蔵、甲州へ通づる重要な道であったという。
 路傍には板碑、石仏、辻には道祖神、馬頭観音等又講の碑もある。
 昔の生活と農業をさぐる上に非常に興味深いものがあり、民俗学では貴重な資料と文化財となっている。
 まだ昔の面影を残す静かな旧堀にそうて歩くと四季を通じて山には野草が群生しているのが見うけられる。
 古くからこの地方に語り伝えられている民話に「大田坊」のむかし話がある。広野の大田坊に大男がいて、その男は粕川をひとまたぎにして杉山の山までのし歩いたという。人々はウォーと村中に響くような大きなうなり声をあげながらのし歩くその姿を見てきもを潰したという。
 粕川地域を横断する関越高速自動車道はまさに巨人である。
 走る車の響きはまさにうなり声をあげ川をまたぎ、山をのし歩いている大男を思わせる。
 そして、この巨人に大きく抵抗してか、春は蛙、夏は蝉、秋の虫と、今なお川畔の自然は人々の心を潤してくれる。
 山々を見渡すと小鳥も多く住み、山鳩、郭公も姿を見せてくれる。四季を通じてまさに百家争鳴の田園風景である。
 だがこのむら里も大きく変わろうとしている。混住社会になりつつある。
 しかし、ここに定住した人達はたとえ一ヶ月前に移住したにせよ、ここがふる里なのである。大事なことはふる里の歴史即むらの生立ちを知ることであって、歴史を知ると言うことは先祖の生活、つまりくらしを知ること、今日ここに住んでいる人達自身を知ることになる。
 粕川畔は実に秀れた田園と恵まれた景観の地である。自然を友として大きなやすらぎの長く続くことを心から祈らずにはいられない。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)3頁〜6頁

川沿の歴史をたどると  田畑俊夫

 暮らしの安定を願い、そこに住み田畑をつくった、苦闘の祖先の息づかいが、谷から肌で感じられる。
 むらの始まりには二つある。思い思いに土地を拓いて居を定めるか、ある計画(開拓)に基づいて行うかである。
 条里集落、名田集落など。また、江戸時代の新田村、明治時代の北海道の開墾村などがあげられる。集落の歩みを景観から見て分かりやすいのは計画開墾の場合である。
 これは一つの意志のもとに、あるまとまった土地が拓かれた場合、そこにはルールが読取られるからである。そうしてそのルールが読取られるその範囲が、その開墾の広さを知る大体の目安にもなる。
 これは開墾に限らず共有山を家毎に分けて持った場合などにも同じ事がいえる。
 こうした規則性は水田よりも畑の方がわかりやすい。畑はあらかじめ分割して拓くことができるからである。水田は水を張るために水平面を作り出さねばならず自然的な条件が強く作用される。
  地図をみて、嵐山町(旧七郷村)粕川(市野川の内川)の流域をみると、多くの堀が枝状にはいりこんでいるのがわかる。この堀の奥には、それぞれ水田かんが い用のため池(地元ではノマとよんでいる)が構築されてある。ため沼の構築年代がわかるのは、江戸、明治に入ってから築造されたもので、碑も立ってある。 この地域は水田にしろ拓けるところは拓きつくしたところであって、谷間に造られてある数多くの小さいため沼は、最初から計画されて、造られたものは僅かで あると聞いている。
 水田に水を引くのに便利な湧水(清水)の出るところに、その水量に見合うだけの水田が拓かれて、ため池に水を蓄えて安定さ せ、安定させた分だけかんがいするのと、初めから計画的にため池を造るのでは水田の形が違ってくる。計画的な水田は一枚一枚に水路を伸ばすべく整然とした 形をもっているが、湧水(清水)を引いて拓いた水田は当初の都合をそのまま受けつぎ、畦ごしの田あり小水路ありできわめて不揃いになっている。
 伝えられるところによるとため池の中には五百年以上も前に造られたものもあるといわれる。古いものはいつの時代に造られたか不明である。
 比企丘陵の中の、とくに嵐山町、滑川町、小川町、東松山市にかけては中世の城館跡が数多くあり、古くから高度な土木技術が導入されていたことも考えられることから、この地域内の沼は中世、あるいは古代までさかのぼるかも知れない。
  昔から人間は川のほとりに住みつき、川の流れとともに生きてきた。と同様にこの丘陵内に住んだ祖先達も、沼を造って水田を拓いて、丘の畑によって暮らして 来たのである。集落の歩みを考えると、昔、この谷に住みついた人達は思い思いに谷水を沼にため、山際に家を建ててそこに居を定め、そこから土地を拓いた。 そうして家々はひとつの連合をつくって自衛を図り、また生活の区切りや慰労を兼ねた祭りやお日待ちを生み出し今日まで伝統として受継ぎ遺している。
 飛地、ここに集落があるが、遠くの方を拓いた名残りである。どこの家でも恵まれた場所にあったのではなく、拓き残しの場所を開墾したものと推し測られる。
 初めの集落は自立性の弱い傍系家族、作男、下働きの女などをかかえた家父制的な地主のいくつかのグループが集まって出来たものであって、個々の農民はこのグループのいずれかに隷属的に含まれていた。
 集落に屋敷という家号があるのは、この家の先祖が本家の祖から土地を貰って、ここに住居を構えたのだと聞くが、屋敷と呼ばれる家は今でも旧家が多い、本屋敷、新屋敷、前屋敷の家号が今もむら内に相当ある(既刊『嵐山町誌』「村の成立過程」参照)御屋敷様はその人の名前を直接指さず、貴人に対する礼であった。
  つぶれ屋敷といわれるところをみると氏神、井戸、壕がそのまま今も残っている。集落の開拓当初よりの人の家が現在まで絶えずにずうっと続いている例は少な いのでないかと思う。家族が絶えたり、破産して家人が出てゆき、空家になった場合、その家のつきあいや、墓守り、あるいは借金などをそのまま受継ぐ形で他 から新たに人が入り、その家督を継いだのだということを耳にする。
 家が絶えて、人が出ていっても墓はそこに残っている。新しくあとを継いだ家は新たに墓を作る。前の墓はやがてどのような家の墓であったかも忘れ去られてしまう。土地の古老がさりげなく語った。
 「あの墓かい、うちの墓では無いんだが、うちが守りをしていて、盆にはきれいに墓掃除して、線香、花をあげて、菩提を弔っている」と、この御仁は仏心の深い、土地を愛している人で敬服した。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)7頁〜10頁

水田かんがいとの戦い  田畑俊夫

 かんがいの為の水利事業は地質、測量、数学に通ずる者にして、初めてなしえることで、今日その工事を、機械力の利用のない当時において完成したことは、農業土木的見地からすれば千金に値する。
 しかし更に私達が学問的に興味を感ずることは、かんがい用水の管理分配である。
 測量、掘削は技術的事業であり、水源地(ここでは沼、溜池をいう)や溝渠通過の管理、用益、用水の分配等は多くの関係者の協同一致と指揮者の統率よろしきを得るのでなければ、せっかく技術的に出来上がったものもこれを活かすことはできない。
 水利事業に二つの意義が有ることを知らなければならない。
 一つは技術的に溝渠を掘りかんがい水を通じること
 二つはかんがい水をどう管理分配するかということ
この二方面事業は集落の協同によって行われる場合が多いのである。時には、分業的に行われている場合もあり、また、一人(指揮者)によって行われる場合もある。
 例えば、関東郡代官伊奈忠治は種々の治水事業をおこなったが、その一環として、寛永六年(一六二九)自然のままになっていた見沼に大堤防を築いて締切り、見沼溜井として人工の沼をつくりあげ、この沼の水を下流地域の二、二一一の村にかんがい用水として利用させた。
 締切った場所は、足立郡附島村(現浦和市)と木曽呂村(現川口市)で堤は八丁(約九〇〇メートル)そこそこで、この堤は八丁つつみと呼ばれるようになった。
 名代官伊奈忠治は水利土木の技術家として名を成している。
 調査以前から川畔一帯の沼、溜池、水路(掘)堰について現況と経過を詳細に一万分の一の地図に、そして先ず堰を実地に調べた。次に水源(沼)を調査、流域の多くの掘を見た。枝状に入りこんで網目の如く形成している。
 掘の奥はそれぞれ水田かんがい用の沼、溜池が構築されてある。
 沼の構築の年代は明治九年の地籍地図から作成した小字名を見ると小字と沼の関係がよくわかる。また人名を付けたもの、無名なものもある。
  越畑という地名は天正十八年五月の前田利家禁制に「武州ならなしおっぱた」とある。旧家船戸治夫氏の先祖は文明年間以前にさかのぼるといわれ、また「越畑 城跡」の発掘調査によれば一五世紀後半〜一六世紀初頭にかけて越畑城が築城されたと推定されていることから、沼の構築年代は、後北条期、江戸期、そして明 治に入ってから築造されたものであるとおもわれる。
 沼畔に碑も建ててあり先人の苦闘の後がしのばれる。
 川畔の田にしろ、丘の畑にしろ、拓けるところはひらかれたところである。
 もともと谷水を引くのに便利な所に湧水がでている水量に見合うだけの田が拓かれたのであったが溜池を造り水をたくわえることによって、その水量の分だけ更に田を拓き耕地拡張をおこなってきたのである。
 はじめから計画的に溜池を築くことによって田を拓いた場合と湧水を利用して少しづつ拓いた場合とでは田への水路(掘)のあり方が違って来ている。
 谷の田は一枚一枚段々になり水路を伸ばして整然とした形をもっているが、湧水(清水)を引いた田は拓いた当初の都合をそのまま受継いで畦ごしの田あり、水通しの田あり、小水路(小堀)ありで極めて不揃いになっている。
 粕川畔の水田を見るに開田するために苦難の時代が続いたことと感じられる。とりわけ堰を造り水を蓄えることは、自然との戦いであったと思う。延長五キロに亙って粕川には十ヶ所の堰があるが、目下、本流の改修工事で、その名(堰名)は後世に止どめることができなくなった。
  この地域は低地帯で、今から五〇〇年、いやもっと古い時代には丘陵の一部をのぞいては当然住む人もなく、タヌキやキツネが住んでいた荒野と聞いている。畠 山重忠時代は領地として開拓し従者など定住させたこととうかがえる。鉢形城落城後にここに住みついた旧家が今も残っていると聞く。
 山裾づたいに 水路を掘って低地一帯をかんがいすることは、近代的土木技術もない当時は夢に近かったといってよい。水が無くて一番苦しんだのは農民だ、きわめて水の少な い地域である。飲料水にも事欠いていた。かんがい、堰工事事業に費用と人足を使うことに、反対論もあったことと察しられる。堰名に人名があるがあるいは水 利事業を推進した人々ではなかろうかと思える。昔のままの堰あとを踏査した時、洪水のたびごとに破損したであろう堰の古い杭に水を求めた苦闘が残ってい た。
 農民の知恵と努力の結晶がこれらの堰であったのである。
 幾歳月を経て、目下改修工事により粕川の農業水利事業がやっとかなえられようとしている。今日の技術の設計は昔のそれと同じであるといわれる。堰の古い杭の跡は粕川の堰の水がいかに重要であったかを物語るものであろう。
 昔からよく「母なる川」といわれるが、粕川もまたこの地域の母なる川である。そしてまた嵐山の田園集落として永く残されるべきであることを提言するものである。
 他地域の大規模な農業水利、耕地整備事業をみると大半が機械力による省力化と生産性の向上をねらって、用排水分離とほ場の整備を合せ行う大規模事業が多くある。
 用排水を分離すれば水の需要が高まる。高まってくる水の需要に十分答えるものはこの地域にない。
 明治初期の頃、荒川からの取水工事の計画があったと聞くが実現されていればこの地域の水田を潤す大工事になったであろう。
 畑地かんがいを行う時代にはいっている今日、農業の近代化が進めば進むほど水はフルに活用されるであろうが粕川の水は決してその要望を満たすほどの水量がないものとみられる。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)11頁〜15頁

粕川の堰  権田恒治

 川はただ水の流れる道ではない。流域の人々にとって、それは「母なる川」であり地方文化は紛れもなく川の文化であった。
 粕川は嵐山町旧七郷村の西南部を流れる川、現流は越畑地区にふたすじあり、川越岩沼と十三間沼に始まり、杉山、広野、(一部吉田、勝田を含む)の水田地帯の真中を流れ、水田耕作には欠かせない用水路、排水路でもある。幅も深さもない。
  水源は右岸左岸1000メートルほどに連なる高さ100メートルそこそこの雑木林の山間の谷水を集めて流れる野川である。そして、やや大きな谷の出口には 堤防を作り、それなりに大きな貯水装置を作って、沼または池と称し谷水を無駄には流さず、かんばつ時の備えにしている。
 粕川にはこの余り水を放流している沼や池が53個もある。粕川と沼とは堀りという粗末な用排水路によって繋がっており、53個の沼は粕川の水源地でもある。
  沼の水は、その谷津田の用水である。粕川には、それら上流地域の余り水や漏水を一時溜めて、かんがい用にすべく川の所々に堰をもうけてある。堰とは川を区 切って貯水する装置であって、主に木の厚板を利用する。堰は稲作者のこうした体験から染みでた生活の知恵で、最も尊敬すべき貴重な遺産である。
  粕川の本流は約4キロメイトル程で、この中に10の堰があった。堰からの水を水田に利用できるのは、川岸の天水田が主で、天水田の大方は川の水面より耕作 地が高いので、堰から直に水が水田に入るのは、堰がノッタ(満水)時で堰に附随してある用水路に流入するからである。雨天続きでどこの水田も水が有り余っ ており、そんな時は天水田も堰水は素通りである。かんてん時は堰水も少なく、同一堰利用者が相計り汲桶で各々の谷汲込むのである。この水汲も小桶で一人で 行うものと、特殊な水汲桶で二人で行う場合とがある。この場合、二人の息がよほど良く合わないと桶に水が入らず、又、入った水も目的の場所まで届かず、途 中にこぼれたり桶がもんどり打ったり、骨折り損のくたびれ儲ということがある。
 沼も堰もそれぞれ管理者がおり水の利用等も規則に従っている。沼も堰もその水を利用する者を、沼下、沼下耕作者と言い、堰普請、堀普請、沼普請等の史役も平等に行うものである。

地図 粕川の沼と堀と堰 【省略】

※粕川の堰は上流から、観音堰、高倉前堰、大橋堰、岩鼻堰(寺前堰)、竹の花堰(宮前堰)、太田坊堰、杉山堰、うしろ堰、六丁堰、大下堰があった。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)16頁〜18頁

沼と堀と堰 田畑俊夫

 沼(溜池)の水が田から堰、そして又田へと、ここ粕川畔水田のかんがい水路は走る。集落の水田開発のあゆみをこの堀が語りかける。今はそれを塗りかえるかのようにコンクリート水路に変わろうとしている。過去の痕跡は旧粕川にのこされている。
 沼の水は堀を通り上の田から下の田へと次々に潤してゆく。各々の水田が一杯になると堀の水は粕川へとそそぎ、そして下流の市野川に流れていくのである。
 沼のひとつひとつ、それ自体はおのおの独立した水源で、それぞれひとまとまりの水利単位戸成っている。こうなると水路が走り抜ける集落の協力なしには昔からの水路の維持が出来なくなり、水を通しての集落の人達との繋がりはこみ入ったものとなってくるであろう。
 また逆に耕作者とのつながりが広くなってゆく下地がなければ、広域にわたる水利施設は造り得ず、そこには結合したひとつの意思が必要である。
 沼周辺の背後の山はそこに住んでからの燃料、肥料の供給地である。そして谷づたいに形づけられた一つの生活領域ともいえる。
 いくすじもの谷の口を通り越して走る粕川の堰から見た集落の景観は素晴らしい領域である。
 水田とはそこに労力と荒れ地さえあれば、いかようにも拓くことが出来るというものではない。どこからどのようにして水を引くのか、そのことをぬきにしては開田は考えられない。
 だからこそ水のつながりはそのまま人との繋がりと重なっていく。
 水田にはその取水施設や手段に地域性や時代性が見受けられる。そして、水田の多くは一枚一枚に名前が付けられている。名前といってもそこを作っている家か、せいぜい集落のみに通用する呼称である。
 かっすい期には水を引く権利をもたぬ、後から割込む形で拓かれた田は後々まで不利な条件を背負っている。
 水利とは変わりにくいものであるが、沼の水から堰へといった取水施設全体の大もとからの変化があればそれを期にして大きく変わることがあるのも事実である。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)23頁〜24頁

粕川沿いをあちらこちら散歩するとつきあたるものは  権田恒治

 権田恒治氏がふらりと粕川沿いをあちらこちらと散歩しながら心に触れた所をパチリパチリと撮った写真に説明を付けられたものを原文そのままの形で編集しました。
【写真省略】

百庚申供養塔

所在地 嵐山町大字廣野中郷
 大字広野の鎮守、八宮神社の参道、鳥居前にあり、この近辺には見られぬ珍しい文化財である。
 庚申講の盛んな昔、村人が挙って寄進したもので、百基以上もあり通称百庚申という。一枚の板石に百庚申と三文字彫ったものもみかけるが百基もの板石庚申塔が並び立っているのは珍しい。

嵐山町大字廣野下郷庚申塚

 現在は広い舗装道路であるが、もとは狭い砂利道の三本辻の小高い所にあって、庚申塔や馬頭観世音が立ち並び、往時の農村信仰の偲ばれる所であり、又、武g比企郡松山領ともあり、村の歴史もほりおこせる。
  庚申塔には、庚申待に祭る庚申青面金剛像や、見ざる、聞かざる、話さざるの三猿の形を刻んだ石塔もあり、庚申(かのえさる)の夜、庚申待として寝ないで徹 夜する習俗があり、その夜眠ると人身にいるという三尸(さんし)の虫が人の睡りに乗じて、その人の罪を上帝(天の神)に告げるとも、三尸が人の命を短くす るともいう。中国の道教の守、庚申に由来する禁忌で、吾が国には、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んになった。庚申は、カノエサルでエトのち十干十二支に より六十日目に一回まわって来るので庚申待を営む仲間を作って講といい、石塔を建てて信心の証とし、健康と家内安全を願ったのである。
 この広野郷の鎮守八宮神社の参道には、百基もの供養石塔もあり、百庚申といい如何信仰の厚かったかを物語っている。

阿弥陀一尊板石塔婆

所在地 嵐山町大字広野下郷
 通称アミダ様の供養塔である。青石塔婆ともいい、原石の産地は、近くは、小川町大字下里にて、下里石として知られている。県内では秩父郡野上村今の長瀞町である。
 碑面に彫ってあるのは梵字のキリークと読みアミダ様(尊)を現している。阿弥陀仏は皆様ご存知の通り、西方にある極楽世界を主宰する仏陀の名。信者は死後 その世界に生れかえる。わが国では浄土宗、真宗などの本寺。阿弥陀教などで西方極楽浄土の様子を説き念仏唱名をすすめているものである。
 この石板塔婆の裏は、道祖神の供養塔も兼ねてをり又、右大山道、左松山道として道しるべともなっている。

道祖神塔

所在地 嵐山町大字廣野下郷庚申塚前三叉路端
 道路の悪霊を防いで行人を守護する 神の供養塔で、日本では、さいのかみ・さえのかみと集合されてきた。くなどの神、たむけの神、ともいい(伊弉諾尊が伊弉冉尊を、黄泉(よみ)の国に訪ね、 逃げ戻った時、追いかけて来た黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止めるために投げた杖から成り出た神)道行く人を災難から守る神、みちのかみ、にて、道中安 全を祈願するには、大きな藁草履わらじ、又は鉄板の草履、わらじ等を、たむけ捧げるので、ここにも昔は傍に大きな欅の木があり、枝に沢山吊して祈願したし るしがあった。
 この道祖神塔には、右大山道、左松山道と彫ってあり、石の道しるべも兼ねる。又この塔は、板碑の裏面を再使用したもので、表は阿弥陀如来の種子(梵字)が彫ってある。土地の人達が、阿弥陀様のご利益にあやかるべく、勿体ないが再使用したものと思われる。
 道しるべの右大山道とは…この辺りの郷(むら)では両隣の神社として有名な、相州大山阿夫利神社、大山講として石尊参りが盛んで、各部落には、夏の雨乞い を祈願して、八月中に、辻に立てたる灯籠に、家順にて夕方には灯を入れ、農作物の育成に必要な、夏の日照りにそなえ、雨を呼ぶお願いを、大山阿夫利神社に 祈願するので、石尊講に代参する人のための道しるべである。代参する者は、その部落の先達一人に連れられて、その部落、今年十六才になった男の子が当るな らわしになって居り、代参がすめば、その子は一人前に大人のつき合いが出来る晴の儀式と言われているので、その子はお土産に木製のコマを講の仲間各戸に 買ってくるのであった。

ミニ絹の道

 今は舗装され近代的な県道となり、月の輪・本田線という。明治から大正にかけて砂利が敷かれ、七郷新道と面目一新する前の泥道時代、明治以前の事である。この道は南北に走れるが、これを高倉地内で東西に横断するのがミニ絹の道である。
 高倉村、吉田村(現嵐山町大字勝田字高倉、同町大字吉田)の境を東西に走る藤庚申道という峠道があり、その道が西に越畑村(現嵐山町大字越畑)から小川町 方面に通じ、吉田村以東は和泉村【現・滑川町】)、小江川村【江南町、現・熊谷市】をぬけ熊谷へ、つまり小川・熊谷間の泥道であったが、短距離すなわち近道 なので、それ故明治初年には熊谷・小川間の県道として第一候補の話題にのぼる程、かなりの主要道路であった。沿道各部落で生産される現金収入の最たるもの は繭・生糸・絹織物で、小川の生産地から越生、飯能、八王子方面への主要道路にして、誰言うとなく絹の道が通称となった。
 この石ぶみは、粕川の 上流ミニ絹の道観音橋のたもとにあって、人通りのない野中の道端、川端にて行人の安全を守っていた。「奉遣立庚申供養塔 元文五年十一月吉日 施主敬白」 とあり、元文五年は西暦1740年桜町天皇の時代で、今より二百五十余年も昔の事であった。この庚申塔の左右に一体づつの石仏があったが、粕川改修で 500メートル許り西方の、越畑・杉山線の道辺に移された。

長屋門

所在地 嵐山町大字太郎丸 田幡家
 市野川勝進橋【精進橋】を渡り300メートル程の 所、東側を県道月の輪本田線、前は広い町道に囲まれた所にあり、旧豪農にて、造り酒屋であった。今もって「酒屋んち」でとほっている。大正から昭和のはじ め頃は、子供のたまり場で、かくれんぼしたり、二階にのぼったりして遊んだものであった。
 おもしろい事にこの字の地番は、子(ね)の何番、丑(うし)の何番と十二支で数へられている。

第二井堰左岸より粕川下流をのぞむ

 粕川改修成った右岸方面を、第二井堰左岸よりの展望です。川岸もブロック積みにて、白々とし今のところ草一本もない出来たてホヤホヤの川岸。何と素晴らしい眺めかな。
 芽立を待つばかりの桑樹もすがすがしく、養蚕部落を思わせ、桑樹につづく田莆も広々と、その向うの民家も布望の男の児誕生のお祝、五月の青空に勇ましく昇 る象徴の鯉のぼりがのぞまれ、平和そのものの田園風景に、竣工成った粕川取材のカメラ子も、うっとりと夢心地で見惚れていた、一つときであった。

高倉一升ぼたもち日待

 「お日待」を「ひまち」「つきまち」といって各種の講仲間が、一所に集い身心をきよめ、邪念を去って一夜をあかし、日の出や月の出を待つ神事である。
 講人に共同の幸福をさづかろうというのであるが、この時には一同飲食を共にし、娯楽に興じ語りあかすのである。
 今のお日待は宴会、懇親会の意味である。
 昔から共同の飲食といっても、特色のあるものの一つに、高倉の一升牡丹餅がある。
  一升牡丹餅は、米七合に小豆三合、起源のわからないほど古いこの一升ぼたもちの行事で、未だ腹をこわした人はいない。このお日待には喧嘩がない。親達の親 睦の行事に集っていただいた牡丹餅を頬ばりながら、子供たちの胸には、神に祈り、大地自然に感謝して共々に事にはげむ共同相助の精神がたくましく成長す る。

河川改修前の粕川

 ここは、嵐山町大字広野字上郷地内より粕川右岸の嵐山町大字杉山への通称大正新道に架かる大正橋上より改修前の粕川下流を望むスナップ写真です。
  両岸には、見る通りの葦・茅等茫茫とした草原で両岸の草が川の中に垂れ込み、川水をせき止め少しの大雨降り時など、川水が氾濫し両岸端の水田耕地は水浸し となり、田植直後の草苗は流され秋の稔り時は、稲は押し倒され稲穂が水浸しとなり豊作を夢みた秋の取り入れも水泡となった事は、しばしばでした。
 遠方にのぞめるは関越高速自動車道で粕川にかかる鉄道です・文明開化の井音を夜も昼も、ゴウゴウと立てています。
 これは前項改修前の粕川が一変して近代的粕川に様替りした姿です。矢張り大正新道大正橋より下流をのぞみ、広々とした耕地の中に一條の人工河川の竣工にてここより下流は、浜水に見舞われる心配がなく、両岸の稲作者も安堵の胸をなぜ下ろしていることでしょう。
 ちなみにこの地点の左岸には第二堰と申す電動式井堰が設けられ水田等の灌漑には自動給水が出来る仕組みになっています。
 はるか前方は高速道の鉄橋です。

寺前堰より

 撮影地点は関越自動車道粕川鉄橋の下、上流方面である。
 人の世 の煩悩を濃縮したような、せせこましい音がひっきりなしに降ってくる。天空は青いし工人の影はなし、このチャンス逸すべからずとシャッターを切る。土手の 標や篠藪の大物は伐り取られ、川の両岸の肌は荒らあらしく、わずか残った茅萱の影を映す水面に、みずすましがあといくばくの命も知らず平和な顔で浮いてい るのがあわれであった。
 まわれ右して下流方向をレンズに入れる。河川改修工事中であったが、作業は休みか、工人は見えない。左岸はノリも出来つつあり、測量の棒が所々立てられ、右岸はパワーシャベルで削られた川岸の肌が生まなまと黒い地肌が無惨であった。
 工事の進捗情況に興味を持ち、更に下方へと歩を伸す。左岸には基礎のブロックが二段ばかり整然とし、前方にはブルトーザーが二機稼動中で、川底をえぐっていた。右岸はまだ破かいの跡も生々しく、目も当てられない状態であった。

改修前の粕川の横顔

 嵐山町七郷地区南部中央を南北に縦断する粕川、巾も水深もない野川であるが、越畑、高倉、杉山、広野部落には、母なる川である。両岸の各部落の耕地、水田の潅、挑水には、大いに一役も二た役も担い、無くてはならない存在である。
  田舎の小川は、小学唱歌にある「春の小川はサラサラ流る、岸のスミレやレンゲの花が、姿やさしく色うつくしく、咲けよ咲けよと、ささやきながら」とは全然 イメージが異り、この粕川は筆者が小学校に通うころ「春の小川」を唄いながら、度々この川端歩きをした。平な道より、道草喰いながらのジャングル道が好き で、草茫茫(ぼうぼう)が足にからまり、芦の角がわら草履(筆者が子供の頃は、下駄は余所行きで、平時は自家製のわら草履が主)を刺し足裏を痛め、血が出 れば辺り一面にある血止め草を貼り「ホラ血が止まった」と腕白ざかりの学校帰りであった。
 ジャングルの中に、川があり、水が流れて魚や泥鰌がい たと思いますか。ところがこの川岸もアップはご覧のとほり柳が生い茂り、根は洗い出され、所どころ陽も射し込んで、魚類の住み処には格好の処、諺に「いつ も柳の下にどじょうはいない」と言うが、泥鰌どころか、ウナギ、ナマズ、鯉までひそんでいるからおどろき、筆者も少年の頃、竹竿の先に大人の手の平程の鉄 製のヤスをつけて、鯉をおどしに行ったり、置き針で鰻を捕って友達に見せびらかした事も、矢張り柳の根の垂れて水に浸っている所が仕掛の目安であった。は るか前方に、高速自動車道の鉄橋が見えるが、その辺に寺前堰があり、堰上、堰下の水溜りは水深もあり釣糸を垂れる格好の場所で、柳バヤ、金鮒が釣れ、田舎 太公望の集る所であった。も少し下ると、竹の鼻堰(一名宮前堰)で取材に行った当時、ただ一つ昔の俤(おもかげ)が丈なす草の中で、手まねきして懐しく瞼 の奥を熱くした。この下方に、水泳の場所太田坊、又その下方に馬の川のり場(馬の水浴び、馬の汗洗い)に土手が傾き馬を乗り入れ易くした杉山等、思出はつ きない。堰があるが、取材の時は半ば取りこわされ、レンズの中には入らなかった。粕川の十ヶ所もあった堰は項を改めて紹介したい。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)25頁〜50頁

嵐山町の溜池  大塚基氏

 嵐山町は比企丘陵地帯のちょうど中央部に位置し平坦部分が少なく、地勢は洪積層と一部第四紀層から形成されております。そしてこの地帯特有の低い丘の合間からは湧き水も少なく、井戸を掘ってもかっ水期には飲水までも事欠くことが多くありました。
 しかし、このような土壌条件の中で、米作りを基本とした当地方の先人達が、この地方に移り住んできて、生活の基盤を強力にするために地形をうまく利用し、丘陵の合間の細長い谷の奥に溜池を造り、溜池の水を利用した水田の開発を考えました。
 その結果、都幾川の石代堰から取水される鎌形、大蔵耕地の約40haを除く殆どの水田が溜池の水で賄われ、嵐山町の水稲作における利用度は全水田面積の78%にもおよぶこととなりました。
 しかし、溜池の老朽化が目立つ中でその実態は明らかなものでなく、溜池の実態を把握することは溜池の保全を考えるうえからも、また、稲作安定を図るうえからも急務であると感じました。
  そこで、嵐山町における溜池の実態を明らかにすべく溜池台帳の作成を計画、昭和50年(1975)から準備を始め、事務調査が一区切りついた昭和53年 (1978)7月に各地区の区長さんを通じて各溜池責任者に管理等の実態調査を依頼しました。その回収率は極めて高く、溜池に対する関心の程が知れまし た。そして、今まで管理団体を持たず慣習だけをたよりに溜池を利用してきたところも沢山ありましたが、この調査を機会に指導がなされた結果、管理団体の結 成や溜池改修計画の立案等、溜池の維持管理改善をはかる水利団体がめだちました。
 溜池台帳は、現場の実態踏査を含まない未完成なりに、昭和54年(1979)2月に作成を完成しました。溜池台帳の必要性を感じてから六年、現場の実態踏査を含んだ台帳に出来なかったことに対して個人的作業の限界を痛感しながらも、やっと出来たという実感が残りました。
  ことあるごとに、県の関係機関に対して、溜池の重要性、実態把握の必要性を嵐山町に於ける実態調査を踏まえて具申しておりました。そのことが効をそうした のかどうか分りませんが、昭和54年度事業として埼玉県では、埼玉縣下の受益2ha以上の溜池について実態調査を実施することとなり、嵐山町に対しても 80ヶ所を対象とした調査依頼がありました。
 現場調査を踏まえた溜池台帳の整備を希望していた折だけに、渡りに船とばかりに委託金を有効に使って調査対象以外の全部の溜池を実施することにしました。
  調査の結果、昭和33年(1958)当時の溜池数調べで193あった溜池も道路の改修、宅地等の開発によって169となっていました。そして溜池の状況を 分析すると、堤搪の状態が極めてよく溜池としての機能を十分に果たしているものが58、堤搪状態が悪いが溜池としての機能を果たしているものが78、漏水 がひどく溜池としての機能を果たしていないものが34もありました。
 嵐山町の農業も圃場整備の進展に伴い谷田の改良も進み、溜池に対する関心も 高まってまいりましたが、長く続いた稲転作事業の後遺症として谷田の荒廃は促進され、谷田の奥深く築かれた溜池の中には管理する人もなく、寂しく雑木等に おかされてしまったものも数多くみうけられます。
 そして今、平成元年(1989)1月現在の溜池の状態をチェックしてみますと、土地改良事業で 四つ、開発等に伴い二つの溜池が無くなり、一つの溜池が沼下の開発に伴い農業用水としての機能を終えました。また、花見台工業団地の開発に伴い七つの溜池 が長い間の農民の思いを胸に秘めながら静かに消えようとしています。
 昭和四五年度から始まった嵐山町の圃場整備事業によって、嵐山町農業振興地 域内の農用区域内水田の73.5%の229ヘクタール、畑の38%の117haと圃場整備は、平成元年度に始まる市の川沿いの優良農地を除いたほとんどが 完成しました。そして、千手堂の圃場整備事業で三つ、嵐山南部、中部の圃場整備事業で(パイプライン方式による用水機場へ)六つの新しい溜池も誕生しまし た。
 また、新しい農業への試みとして嵐山南部の県営土地改良事業により12haのかんすい畑が設置され畑地へのかんがいも始まりました。この計画の是非によっては今後の畑地へのかんがいが要求され益々溜池の必要性が高まると思われます。
 今日まで、嵐山町に於いての稲作栽培は常に水の確保との戦いでありました。
 そして、これからも嵐山町の農業の発展は水の確保がいかになされるかにかかっています。
 溜池の調査を通して溜池の実態を把握することができ、溜池の維持管理に対する指導がなされました。しかし、築沼技術の全てを尽くして作られた溜池も長い間の風雪と農業意欲の低下の中で、堤搪の破損が著しいものがみうけられます。
 それぞれの溜池は、それぞれの長い歴史の中に、水田への用水補給源とともに農村の重要な蛋白源としての魚類の飼育場所として、又、多くの信仰と言い伝えを携えて地域社会と深く関わってきました。
 そして今、圃場整備事業の進行にともなって農業用水として溜池の必要性が再認識される中で、あらためて地域社会と結びついた防火用水や、環境保全の場などの利用方法とも考え合せながら、溜池の保全維持のための努力を払うことが大きな課題となってきたと思われます。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)51頁〜55頁

七郷地区の土地改良事業  大塚基氏

 昭和4、5年(1929−1930)に始まった世界大恐慌のあおりで日本の農村も計り知れない程の打撃を受けていた。そして人口も、明治の始めに3480万人であったものが昭和七年(1932)には6930万人と倍増していた。
 そのような中で、昭和7年(1932)から農業土木事業は食糧の増産を伴い農村に於ける雇用機会を与える失業対策の側面も有しているということで救農土木事業として始まったが、第二次世界大戦の直前の頃には、失業対策的な色彩は影をひそめ、戦時対応策としての色合いを強めながらも食糧増産という本来の目的が鮮明になっていった。
 難しい時代の中で、古里、吉田に挟まれた17haの水田をもつ農民はこれといった排水路もない低湿田に苦労していた。小量の一時雨でも氾濫さし稲作に大きな被害を与えることも度々であったという。そして、農民はむなしい努力に終わるかも知れないと思いながらも永々として、こぶたと言われる小さな用排水堀をさらい、少しでも排水効率を高める努力をおこなっていた。
 それこそ、二毛作はまったく夢の夢であった。
 そんな状況の中、七郷村においても昭和七年から国の施策に基づいて農村振興土木事業が始まり地域の道水路等が次々と整備されていった。近年に改良された道水路幹線の原形はほぼこの時代に出来上がったといえよう。そして、この事業の一環として昭和15年(1940)に嵐山町吉田の小林政市氏、古里の荻山忠治氏等が中心となって、古里、吉田の総意を結集し、古里吉田耕地の中央に排水路を新設、湿田を二毛作田へ改良し生産の向上を図ることを計画した。
 幅8m、総延長750mの排水路の新設には当然60a余りもの用地が必要となり必然的に賛否両論の考え方が示され、初めから百パーセントの同意が得られる筈もなかった。何十回もの話合いが重ねられて排水路の新設が決定された。
 工事は人力によっておこなわれ、面積割に夫役された。しかし第二次世界大戦の直前、最も、人夫として頼るべき人々は徴兵され人夫は常にそこをついていた。そこで僅かな報酬で七郷村の女子青年団に招集がかかり人夫に狩りだされた。村をあげての事業となった。
 秋の取入れが住んだ11月に始まった工事も人夫不足等から工期の遅れをよぎなくされたが、翌年(1941)の田植えまでには人々の協力の甲斐あって素晴らしい排水路が実現した。
 秋の収穫が終わるとただ一面の湿地帯と化して作物も育たづひっそりと静まりかえっていた耕地に、麦を中心として菜の花、じゃがいもなど色々な作物が競い合う、夢にまで見た二毛作耕地が実現したのである。
 古里吉田耕地の湿地帯を解消し、見事な二毛作田に改良したその排水幹線は「新川」(しんかわ)若しくは「新堀」と呼ばれ滑川の源流となった。
 大きな戦争を挟んで牛歩の歩みを続けてきた七郷村の土地改良事業も昭和36年度から始まった農業構造改善事業において稚蚕飼育所、集乳所等農業近代化施設とともに各地区の農道、ため池改修が華々しく行われるようになった。
 そして、昭和45年度第一次農業構造改善事業において、かつて昭和15年度に七郷村中の人々を動員して鍬やもっこにて新設した新川を含んだ、古里の柏木沼の下から吉田の勝田境までの従前農地面積63.6haの耕地を対象とした圃場整備事業が藤田正作理事長を中心として行われ、この事業の成果をもとに次の表のように圃場整備事業の推進が図られ、七郷地区の殆どの農地が整備された。

圃場整備事業推進状況

事業年度(面工事のみ)、地区名、受益面積(田、畑、計)、組織名
昭和45年度 七郷北部 田545ha 畑61ha 計606ha 七郷北部土地改良区
昭和55年度 勝田 田55ha 畑1ha 計56ha 滑川西部土地改良区
昭和56年度 吉田 田71ha 畑14ha 計85ha 七郷北部土地改良区
昭和58年度 藪谷 田24ha 畑5ha 計29ha 七郷北部土地改良区
昭和59年度〜63年度 北田 田209ha 畑131ha 計340ha 北田土地改良区
昭和59年度〜平成1年度 嵐山中部 田773ha 畑220ha 計993ha 嵐山中部土地改良区
昭和62年度 馬内 田22ha 畑11ha 計33ha 馬内土地改良区
昭和63年度 長沼下 田46ha 畑16ha 計62ha 長沼下土地改良区

 農道においても随時改修されてきたが昭和48年度の融資単独農道舗装事業をかわきりに地域の主要道路について各種の農道舗装事業を導入して今は殆どの道路の舗装を完了した。
 しかし、傾斜地に集団している農地を通過する農道を中心に道路の改良と舗装が今もなお続けられている。
 明治42年(1909)に戸数482戸、人口3157であった七郷地区は嵐山郷を除いて平成元年(1989)の今、戸数は1.6倍の773戸となったが人口は3101人と殆ど変わらない。しかし、多くの人々が積み重ねてきた努力によって農業の基盤は大きく変わり近代農業に対応できうる基礎が出来上がった。
 嵐山町の農業も、七郷地区の農業も、文明の進歩によって狭くなった世界の中で今までに類を見なかったほど難しい世界情勢の荒波にもまれている。
 しかし、昔から変わることなく一貫して人々の生活を支える農業の重要性が変わるものでもなく、人々の幸せの為に先人達がこの大地に流した土地改良事業の汗がむくわれる事を祈りたい。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)56頁〜61頁

編集後記 大塚基氏

 遠藤庄吉さんが七郷地区全体をとらえながら粕川沿いのことをまとめて見たいと私の所に見えられたのが4〜5年前の頃であったと思います。
 その後、遠藤庄吉さんと権田恒治さんの努力によって集められた資料をもとに編集して欲しいといわれました。
 多様な資料と文面におののきながらも使えるものだけを抜出し、私の資料を差し挟んで生活の合間を縫ってまとめてみました。
 ひたむきに郷土を愛する遠藤さん、権田さんの労に報いられたならば、また、側面から応援していただいた田畑俊夫氏の嵐山町助役就任の記念となれば幸いです。
 なお、資料写真について東松山土木事務所の高橋康男氏にも御協力いただきました。感謝する次第です。

大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)62頁
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