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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第3節:農耕・園芸

実りの秋にみる 農業いま・むかし

 くり・なしの季節も終わり、嵐山町の実りの秋は、さつま芋・かきへと彩りを変えています。
 今年、嵐山町は町制施行二十周年を迎えましたが、この間に町の農業もずいぶんと様変わりしました。昭和四十五年(1970)には、総世帯数二千二百九十三戸のうち、ほぼ半数に近い千百二十戸が農業を営んでいました。しかし昭和六十年(1985)になると、総世帯数四千三百八十四戸のうち、農家数は九百四十三戸と全体の四分の一以下まで減少しました。
 農業というと、米麦・農蚕・酪農・養豚養鶏・果樹・施設園芸などいろいろありますが、日本が輸入に頼り自給自足を忘れ、農地はどんどん宅地化しているなか、生活様式の変化とともに規模を縮小したり、転業する農家が多くなっています。しかし、なにもかも自給自足のできなくなった状態が健全といえるでしょうか。
 ほんの少しの感傷を含め、厳しいなかで、今なおがんばって農業を続けているお宅を訪ねてみました。

現在の農業を考える時

——酪農の場合——

 嵐山町の酪農は、昭和四十年(1965)に二百三十四戸、乳用牛数三百七十四頭で営まれていたのが、昭和六十年(1985)には十六戸、三百七十六頭と頭数がほぼ同じなのに戸数の大幅な減少が目立ちます。
 この現象は、乳価の低迷により、一つの家が頭数でこなさないと採算がとれなくなってきている、つまり経営のシステム化についていけないと成り立っていかないことを意味しているのでしょう。
 しかし、そんな中で後継者のかたがたも一生懸命がんばり、生産コストを下げるために、転作田や遊休農地を利用して飼料用作物の開発などに取り組んでいます。そして嵐山町の年間乳量も約千三百トン(昭和四十年は約千五百トン)と、長い間生産量も安定しています。
 現在、牛乳の一人当たりの消費量は、一日約百二十五グラム。そして今年の小売り牛乳は、乳脂肪分を三・五パーセントに上げたことと、それに合わせて消費宣伝をしたこともあって、七月の牛乳消費量が前年同月よりも六・二パーセント増加しましました。
 酪農に限らず、農業全体で思うことは、その農産物をどう消費者に選んでもらうか考えることと、消費宣伝活動を重要視し積極的に行うことが必要だと思います。
牛乳に関して言えば
 牛乳にはカルシウムのほか、ビタミンA、B2が多く含まれていて、若さを保つ健康食品です。
 美人は牛乳によってつくられます。
 こんなことを、みんなで工夫を凝らして宣伝していけば、少しは牛乳を多く飲もうか、という気になるかもしれません。(全国牛乳普及協会編「牛乳と保健の科学」参考)

嵐山町の農家数の推移

     飼養農家数 飼養頭数 養蚕農家数 収繭量 総農家数
昭和40年  234戸   374頭   834戸  281t  1,169戸
  45   118戸   598頭   778戸  370t  1,120戸
  50    28戸   341頭   629戸  334t  1,033戸
  55    22戸   332頭   506戸  288t   996戸
  60    16戸   376頭   341戸  160t   943戸
 (資料:農業センサス、埼玉農林水産統計年表)

いまだ健在、炭焼き

 炭の需要も現在は少なくなりましたが、昔は家庭の必需品でした。今でも町内で三軒の農家が焼き続けています。その一人遠山の栗原弥之助さんを訪ねてみました。
 栗原さんは、炭を焼き始めて六十年、「親が焼いていたから続けているんですよ」と話してくれましたが、現在七十七才、毎日朝三時に起きて仕事をするという元気なかたです。
 焼く炭は白炭、黒炭二種類で、白炭は表面は灰色で火が高温になり、特別な和室の暖房や、アユ焼き用などに、黒炭はヤキトリ用に多く使われており、価格は白炭が黒炭の約二倍と高値、出荷は町内がほとんどだそうです。
 炭を焼くには、土で築いた窯の中で、白炭は生の木を二十四時間から二十八時間、原木の大きさにより四十八時間まで、黒炭は枯れた木を七十二時間焼く。どちらも、窯の温度にコツがあるそうです。仕事の関係で、焼くのは十一月から翌年六月まで。材料の原木は、冬の間山から切り出し、クヌギ、カシ、ナラが炭材に適している。約八十センチに切り詰めた原木を、金矢というノミ形の大きいのでカケヤを使い一本ずつ切りさいていく。太いのは三十六本にも割く、芸術ともいえる作業には驚きました。窯は三十年位使え、今年一基新しく造り替える計画とのことです。
 炭のほかに、養鶏、しいたけなど複合経営を営んでいる。「人間はこのごろわがままになりすぎましたよ。自然の恵みに感謝して毎日を楽しく暮らさなくては」との言葉に、私たちの忘れかけていたものを教えてくれた気がします。いつまでも、貴重な炭焼きを守ってほしいと思います。

——厳しい養蚕家——

 養蚕は嵐山町の主要農産物の一つであり、長い歴史があります。しかしここ数年、さまざまな要因により岐路に立っています。
 昭和四十五年(1970)から五十五年(1980)まで、価格、生産量とも高水準を保ち安定していましたが、昭和五十六年(1981)以降徐々に下がり始め、現在は戸数でピーク時の半分以下(二百戸)、生産量で二分の一(十万三千五百キログラム)まで減っています。
 これは以前から心配されていた養蚕家の高齢化、後継者不足、外国からの糸の輸入増加、また、糸価の低迷に伴う生産意欲の低下など、さまざまな要因が考えられます。
 数軒の養蚕農家に聞いてみましたが、マユの価格の低迷は厳しいと言っていました。昭和五十四年(1979)が一番値段がよくキログラム当たり二千百円、現在は千三百円だそうです。
 経営者が高齢なお宅では、「来年は、年間四回掃き立てをしているのを二回にするか、都合によってはやめたい。」若い養蚕家は機械を導入しがんばっていますが、「このごろは大変厳しい、これから先どうなるかわからないね」と話していました。
 外国からの輸入も減少しつつあり、今後、マユの値段も上がるだろうと予測もされていますが、やはり着物は高価なものだという理由などで、今が一番厳しい時期でしょう。
 そして養蚕業を縮小したり、やめる方が多くなってきており、大切な農地の荒廃も心配されます。
 長い歴史があり、わが地域に合ったたいせつな農産業の一つでもある養蚕を、ぜひがんばって守ってもらいたいものです。

『嵐山町報道』358号 1987年(昭和62)11月10日
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