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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第3節:農耕・園芸

小集団地開発事業で石代堰からコンクリート用水路が出来る

 1956年(昭和31)5月25日、菅谷村第4回臨時議会で高崎達蔵村長は、「菅谷村が小集団地開発事業計画の指定をされ、二〇〇万円の費用の内三割が国から補助されることになった」と報告した(『嵐山町議会史』14頁)。この小集団地開発事業については、『菅谷村報道』71号(1956年6月20日発行)に、「小集団地開発事業計画の中に比企地区では本村【菅谷村】が指定され大蔵が百十万、越畑が四十万、太郎丸が五十万、計二百万で三割が国から補助され、残り百四十万は地元負担であるが、その八割に長期融資がなされる」と村長報告が掲載されている。

石代水路工事進む

十一月十二日は【に】起工した石代水路改修工事は、長谷部組伊田組の両者によつて工事を進めているが、すでに上流部はコンクリート水路が完成、予定通り三月中旬までには完了する見込みである。

『菅谷村報道』76号 1956年(昭和31)12月25日

 都幾川の八幡橋上流の石代堰(こくだいせき)から鎌形、大蔵地区の水田への1000mのコンクリート水路は、『嵐山町議会史』の議員経験者の「一言集」で金井倉次郎氏が1982年(昭和57)の嵐山町南部土地改良区の設立まで「両地区に与えた恩恵は多大」と評価している潅漑用水路であった。

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