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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第3節:農耕・園芸

二大護畔工事を完成 志賀部落

 志賀津金沢(つがんざわ)の観音堂沼は道路よりの決壊と漏水のため沼下関係者がかねてよりその処置について協議中であったが、二十四年度キティ水害による補助があるといふので話は具体化し、排水管理者内田寛太郎氏が先になり、耕作関係者七十名と共に大改修を行なふことに決定。松山の耕地課で設計し、伊田組が請負い、二十五年(1950)八月にヒカン【樋管】の第一期工事が行はれ、十一月には護畔工事がなされて、十二月二十五日、遂に完成された。総費用百二万五千円で七割五分を国庫の補助に、残りは地元民が負担することになっている。

内田寛太郎氏談 この沼の完成によって、沼下十八町の耕作者が安心して耕作できることはよろこばしい。満水した場合には非常に危険なので、周囲に手すりを取り付けるべく、目下、村当局に申請中である。

 一方、志賀西町裏溜池(宝城寺沼)も同様、漏水のため内田喜平、根岸傳七、内田鳥蔵氏が相談し、十二月初旬着工し、殆ど完成するまでになってゐる。総費用三十九万円で、国庫補助はやはり七割五分である。この工事には消防団が非常な熱意をもち、火災防止の見地から貯水池を三ヶ所作る計画と共に、一朝事ある時は、この沼の水を【高崎達蔵】村長氏宅前の堀に流入できるようにしたい希望を持ってをり、これが実現されれば、嘗(かっ)て栗原龍蔵氏が山川氏宅火災の際、寒中、沼に飛び込んでヒ【樋】を抜いた冒険も必要なくなるであらう。尚この沼の完成により、耕作者二十一名の耕作地四町三反が便利を受けることになる。

『菅谷村報道』11号 1951年(昭和26)2月10日

危険な沼 志賀

 たくさんの費用と労力と日時を費やして完成した志賀観音堂前の沼は理想的な灌漑用として利用価値の高いものである。丈夫な柵をめぐらし、水際には救急用の太い針金を長く延ばし、設計者の苦心のあとがしのばれてうれしい。人通りも多い。人家も周囲にある。階段式の樋もたくさんある。
 こう見ると、子供の水泳には一寸心配ないように思われるが、実はそれだけ子供達に安心感を与え危険である。夏休み、子ども会の指導中、何気なく語る子供達の話「昨日なあ高橋があっぷかしているのを俺と高橋で出してやったんよ」「内田がぶくぶくしているのを高橋と若い衆で引張り出したん」「大野があっぷあっぷしているのを大人が出してくれたぜ」「あやちゃんを正ちゃんが出してやったん」次々に出る数々の話。私はぞっとしてしまった。
 全国の水の犠牲者が千六百人、大部分が水際二米以内の背の立たないところ、溺れて呼吸が止ってから四〜五分のうちに十中九人は心臓が停止して死亡するとゆう。
 ぶくぶくしているのを救わない限り、すぐ死ぬものだと心得べきである。子供達にきくと、皆二人以上で引き上げている。救助法にかなった正しいやり方である。これ等は皆助かっているから何でもないようなもの、実に危険である。
 それにこの沼は洗濯は勿論、諸道具の洗い場に利用されているため不潔で、水泳は絶対にいけない沼だと言っても過言ではない。
 父兄方の御注意を更にお願いしたい。
 なお善行者は、高橋好男(三年)、高橋豊作(四年)、高橋文雄(六年)、高橋正子(四年)、其の他若い人二人、大人一。八月始めまで、今年四件。(荻山栄一)

『菅谷村報道』25号 1952年(昭和27)9月1日
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