第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
川島開拓の思い出(川島・森田与資)
現在明星食品株式会社が建築されて居る土地は川島地区の山林地帯であった。昭和二十三年(1948)三月末私用にて小川町に行き帰りの電車を待つべくホームに立って居た。すると、いきなり後より「君大変なことが起きましたよ」との声驚いて振り返ればそれは平沢の村田康利さんであった。当時村田さんは地主層より選出された農地委員の一人であった。君々の部落の山林全部が三月一日付けを以て、農林大臣が開墾予定地として指定してしまいましたと言う。私も一瞬驚いたが、「はあ」そうですかと返すしか言葉はなかった。川島地区の山林とは、新田前、清水、市海道天沼、岩鼻長山、屋田、赤坂下の約二十五町歩であった。
『嵐山町報道』202号 1970年(昭和45)3月
当時政府としては食糧増産と海外から引揚者の入植を目的として各地を選んだのであった。
特の高崎村長さんも、これは大変な事になった。(私)君これは大字川島の問題ではない、菅谷村の大事件、入植者に来られると村政がやりにくく最小限度に止めなければならないと言う、それにはどうしたらよい良いかと私は問うた。君こうなったらいたし方が無い、調査に来た役人に出来るだけ御馳走することさ、それにはそれなりの道が有るものさと大笑し、何時の時代でも変りはないとのこと。そして忘れもしない八月十三日真夏の太陽が容赦なく照りつける中を、県の開拓課より調査団が乗り込んできたのであった。
村長自ら案内役として、陣頭に立ち最初の日は、新田前、清水地区を一廻りして河野社掌の経営する浴場付料亭に連れ込み(今の嵐山荘の所)舞台付き大広間にて呑めや唄への大騒ぎ、第一番に入浴して猿又一つで出て来た村長さんの姿が今でもちらついて思い浮ばれるのである。それから幾日か経った日曜日こんどは鮎猟鎌形八幡橋下にて、網打ち、とった魚を調理して、又一騒ぎ、かくして一週間の日程は過ぎた。
その間村長さんは調査団の宿泊して居る小島屋に調査団と一杯呑んで入植されては困るからと、膝談判、自分も度々同席したことがあった。調査員も村長の気持が分ったのか他の地区には殆んど足を入れなかった。
かくして調査は一応終り年の瀬も押し迫った十二月二十八日(現今なら御用納め)県の開拓課に開拓審議会が開かれ、川島地区の問題も提案されるから傍聴に来るようにとのこと。村長さん都合悪く君行ってくれないかとのことにて初代農地委員会長でもあった長島さん今の農協組合長と出席した。御承知の通り当時県庁は焼失して各課とも散在して居た。今思へばお寺のような事務所に行き其の旨を告げると審議会は新田道に面した県南水道事務所とのこと探し当て入場した当時国道の両側には家は何軒もなかった。やがてぞくぞくと委員が入場して来た。聞く所によると県議さんも多数居り二十二名の委員とのことであった。やがて開会が告げられ第一番に我が地区の議題が提案され調査資料の朗読が有り終って調査員としての意見が付け加えられた。
川島地区は帯状にして狭過ぎ入植の余地はない増反で行くのが尤も理想であると述べた一同賛成報告終って僅か十分足らず偉い人の会議はこうゆうものかと思った。それもその筈恐らく川島地区の様子を知った委員は一人として居なかったと思った調査員の一人が長島さんと私の所にて肩を叩いて御苦労様とオーバーをかけてくれたことを記憶して居る。冬の日足は早く薄暗くなったバスに揺られて志木駅に着き東上線の人になって帰宅した全地域が指定を受けながら二地区に止まり然も増反として村人に与えられたことは当時村長高崎さんのお力であると感謝するものであり生涯忘るることの出来ない。
現在面目を一新して工場事業所等建立されて居るが時代の要請であり開けつつあることも嵐山町の誇とする所であろう。