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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

杉山城跡

菅谷村の歴史散歩 その3

杉山城 (杉山)

           大澤喜一

 吉見丘陵の一角、幅広い二つの谷に挟まれて、細長く延びる台地の中ほどを、さらに自然の谷によって前後を断ち切られ、独立丘となった小高い丘にこの城は築かれている。
 南西面は戦国史上に名高い松山城の外郭を流れる市野川上流が、裾を洗って急坂絶壁となる自然の要害地で、その形が雁の飛ぶように見えるところから、雁城の名がある。
 杉山城主については、金子十郎家定、あるいは庄(杉山)主人(もんど)といわれ、『新編武蔵風土記稿』にもその二人をあげている。
 ただ現在見る遺構は明らかに戦国期、それもだいぶ末期のもので、かなり近世的な要素の含まれた中世城郭といえよう*1
 金子十郎家定は、武蔵七党中、村山党に属した人で保延四年(1138)、入間郡金子郷(元武蔵町金子)に生まれ、保元平治の両乱、また源頼朝の挙兵に際しては畠山重忠に従い、それぞれ勇名をはせている。
 庄(杉山)主人は、松山城主上田氏の臣と伝えるのみで詳細は不明だが、武蔵七党中、児玉党に庄氏が見え、『小田原役帳』にも庄式部大輔などが記されているので、その一族中の者かと推定される。
 城は、丘陵の最高所に本丸を置き、それを中心として十個余りの曲輪が取り巻く多郭式の城郭で、面積は二万五千坪に及火、その非常によく発達した縄張りが中世城郭においてはこれ以上望みえないという程の完璧な状態で現存する。真に貴重な遺跡である。
 一方整然と見える曲輪が、実は細心の注意を払った複雑な形で現存し、ヨコヤ等を見事に備えたその曲輪の周囲には、おのおの土塁と空堀がきれいにめぐりそれぞれの虎口(入口)は空堀を土塁によって渡し、しかも食違いなどにより、すべて一直線に入ることなできない等々、まるで軍学書でも見るようで全く興味の尽きない城である。
 大手は東西に開け、そこから内郭部に至る途中には木橋を仮定すると見事な枡形を現出する小郭があり、興味深い。
 城の南側、市の川に面した部分には水の手と言われる泉があり、そのあたりから幾つかの立堀が急斜面を貫いているのが見られる。以上のような要害の適地であるから、鎌倉期に、金子十郎家定がこの地に城を構えたとしても不思議はなくそれは畠山氏との関係からも当然考えられることだがいずれにしても現在の遺構とは全く関係なく、現在見られる極度に発達した近世城郭への過度期のものと見られる杉山城は、その地理的條件(寄居、秩父方面へ通じる街道の押え)からも松山城の支城として、戦国末期に構築され、天正十八年(1590)、松山城の落城と共に運命をともにしたものとみていいだろう。 なおこの城の根小屋的な位置に現在住んでおられる初雁不二彦氏宅には、明治の初めごろまで杉山城の大手門といわれるものが存在したという。昭和四十一年七月二十日稿 
(次回は菅谷城と太田源六郎資康の菅谷陣営)
菅谷村文化財保護委員 
日本歴史研究会理事 

『菅谷村報道』171号 1967年(昭和42)3月10日

*1:杉山城の築城年代については、その後の研究成果を参照のこと。

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