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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

杉山城跡

金子・初雁一族につきて

 比企郡七郷村大字杉山に住む金子・初雁一族は、旧幕時代名主役をつとめ、村の指導役をしていて醇厚淳朴の美風を有する一族とせられていた。今茲に同地に伝わる口碑伝説並に古文書金石文に依って、この一族につき考証的に記述して見たいと思う。

 金子氏は金子十郎家忠を出して著名なる武蔵七党中の横山党に属し、武相の間に活躍して居たものの流れを汲むと考えられるが新編武蔵風土記稿に依ると、八和田村高谷及び杉山の古城址に、金子十郎家忠築城の伝説を載せて居るところを見ると、古からこの地が金子氏と何等かの関係があったものとも考えられる。杉山の金子氏はもと高谷県(あがた)にいた金子藏身というものが杉山に移住して来たのを祖先として居ると云うことは、天明二年(1782)の記録になった「考武州杉山村藏身庵志」(金子保蔵氏宅所蔵)に「夫レ近里高谷縣ニ金子藏身ナルモノアリ茲ニ来ル其ノ嫡子金子兵部其嫡子帯刀其嫡子長左衛門其ノ嫡子法身ニシテ月高道照庵主トイフ當庵ヲ営ミテ居住ス則チ先祖藏身ノ旧名ヲ忘レサルヲ以テ庵名ヲ改メテ金子山藏身庵ト号ス寛文四甲辰年病死ス」(後略)とあって、この頃金子藏身が高谷から来たとの伝説があったに違いない。吾々も父老から幼時に度々聞かされた事柄である。
 又現在八和田村高谷に金子氏の居た家だといわれて居る家があって、今では山岸氏を称していて同家の本家といわれている。その家について種々調査して見たが、古文書などの参考にすべきものはなく、たヾ伝説として昔は金子氏であったこと、小川熊谷縣道に沿うて流れる小川を隔てた南方の小丘に一基の墓石があって金子十郎兵衛の墓といわれ、當家の墓地とは離れているが迎盆には真っ先に迎えに行くのだと云うこと、金子氏についての記録や遺物はすべて杉山に持ち行かれたという伝説があることを話してくれた。教えられるまゝにこの墓を訪ねて見たが、墓石の質が砂岩なる上に相当年代を経過したためか、風化甚しく文字は全然判読出来ないが、形式は前側の下方に蓮花の造立のあるもので忍城付近にある戦国時代武将の墓のそれに似ているように思われる。その付近に墓石の破片らしきものも多少存在している。又大河村腰越の馬場氏方(当主勇三郎)に蔵する同氏系譜表に、高谷砦に金子十郎兵衛忠成と云う人が長徳・治承の頃居ったと云うことが記されている。金子十郎家忠の築城の伝説と何等かの関係があると思われる。前記墓石の主の金子十郎左衛門とこの十郎兵衛とは、同名異人であることは墓石の形式から見ても勿論なるべきも、年代は相当隔たって居るが非常に近い関係のあることは想像できる。即ち高谷砦主の金子十郎兵衛の家計が続いて同地に居住し藏身に至って杉山に移ったのではないかと考えられる。
 次に金子氏がいつ頃高谷から移住して来たかについては、未だ確証はないが、藏身の孫帯刀が案内をして杉山村の縄打をしたという文書がある。それは「慶長二年水帳」と云う享保十一年(1726)の写本があって(金子慶助宅所蔵、原本は所在不明)慶長二年(1597)丙二月十日御縄打、案内外記、帯刀と表記し、水田拾七町八畝拾八歩、畑拾四町二反六畝二十三歩を上中下の三階級に分ち、小字名・所有者名をも記してある。又帯刀の墓碑はもと「尼ヶ峠」の東南中腹にあって(今は金子忠良氏墓地に移されている)「堅叟全固居士」の戒名で元和五年(1619)の紀年があって、慶長御縄打後二十二年目である。又その妻は一窓貞仙大姉寛永七年(1630)庚辰二月十五日と記されている。帯刀が何歳で没したかは、記してないからわからぬが、慶長二年に土地の案内をしているからには二十歳以上に出ていなければならず、仮に二十五歳の若い名主として、元和五年(1619)に没したのが四十七歳、生れたのは、天正元年(1573)ということになり、それは又兵部が二十歳の時の子としても兵部の生れたのが天文二十三年(1554)、又その兵部が藏身の二十歳の時の子として、藏身の生れたのは天文三年(1534)となる。正に天下兵乱の真只中で諸民流転の激しい時代であった。
 藏身の身分は何であって、何故に杉山に来たかについては、もとより知る由もないが、兵農の区別の判然たらざるこの時代には、武士であって農業を営んでいたものであろう。「藏身」と云う名が武士の名であるし、兵部、帯刀も同様である。藏身の実際的に活動した時代は、この拍算よりも十年位を遡らせても差支ないであろうから、杉山移住は天文から弘治にわたる時代であろう。或は尚これより十年位を遡って大永・享禄に入るかも知れぬ。藏身・兵部の墓石は未だ発見されないのはまことに残念であるが、将来の研究に俟つより外にない。又金子氏と当地に対する杉山城址と何らかの関係もないであろうか。
 当地については『新編武蔵風土記稿』には一説として金子十郎家忠の居城と云うのがあげてある。勿論現存する城址は、その形式から云えば戦国時代のものであるが、これも幾度かの改修によって出来たものであることは、城郭史研究家の認めるところで、その起源はずっと古く金子氏との関係を全然否定するのは早計であろう。或は高谷城主の流れを汲む金子藏身が、祖先の縁故をもって当地に移住して来たのではあるまいか。この城址の時代と藏身、兵部の活躍時代とは大体一致するものと思われる。杉山城主の家臣中にも金子氏のあることをも想起せられ、その古文書の中に藏身・兵部の名の或は発見せられるのではないかと思われるが将来の研究に俟つより外はない。

 慶長二年(1597)水帳にある案内の筆頭外記は初雁氏の祖先と云われている。その墓は現在初雁鳴彦氏宅の墓地にあり「固應當堅禅定門 寛永三年(1626)丙午四月十一日」と記され又その妻女のものは「華屋秋芳禅定尼 承応二年(1653)癸巳十一月二十二日」と記されている。即ち外記は帯刀の没後六年にして没したのである。帯刀の妻は帯刀の没後十年にして没しているところから想像するに、その没年はあまり若くはなかったとも考えられるが、外記の妻は外記の没後二十七年目に没したところからみると、外記は比較的夭折だったのかとも思われる。以上は例外を除いた極めて常識的な考え方である。しかし又外記と帯刀と何れが年長者なりしかも知ることは出来ぬ。初雁氏は金子氏と如何なる関係ありや。伝説によれば、両氏は同祖より出て共に金子氏であったが、その中のある人が、元旦に初雁を領主に献じ、且目出度い和歌を添えたので殿の御感にあずかり「初雁」の姓を賜ったのであると云う。その和歌も古老の中には記憶していたものもあって幼時父老から教ったこともあったが、子供の時のことで興味もないから忘れてしまい、知って居た故老も逐次あの世に旅立たれたので忘れられてしまったのである。両氏は檀那寺を等くし、家の嘉例、風習等頗る共通のものもあって古くから一族として交際極めて親密であり、その深き関係あるを思はしめる。慶長水帳によれば土地所有面積は外記分が杉山村の筆頭で頗る繁栄していたものであったことがわかる。唯戒名を見ると帯刀夫妻が居士・大姉なるに対して外記は禅定門・禅定尼で(後世になって別に大きな石碑にして居士・大姉に改めたが)些か格差を思わしめる。
 両氏の関係の伝説を信ずる場合にそれを何れの時代とすべきか、藏身の子兵部の兄弟にすぐれたる人物あり、殿の御覚も目出度く、この伝説の如き事実ありて初雁姓を賜り異常の引立を受けて家門繁栄せしとも思われるし、その伝説の主が即ち外記自身かも知らぬ。金子氏が帯刀を以て祖とし、外記が初雁氏の祖と云われるのはこの事実を物語るものかも知れぬ。金子・初雁二氏の分れた時の人を以てかく云うのではないかと思われる。
 天正十八年(1590)秀吉、北條氏を亡すや、松山・鉢形等当地の諸城すべて落城に及び、家康、同年八月江戸城に入りて関八州の主となるや、これら諸城はすべて破却せられた。そこで杉山の砦も運命を共にしたのであろう。初雁氏宅に杉山城の木戸のものと称する大扉が所蔵せられていた事実を見れば、何如にその城との関係の密接なりしかを想像することが出来る。恐らく帯刀も外記と共に杉山城主に仕えたのであろう。両氏の関係についての異説は、甲斐国初鹿野付近に初雁姓を称するものヽあると云うことから、金子氏とは関係なく同地から移って来たものであろうと云うのである。これは当地の伝説にはなかった新説であるが、当地と諏訪武田氏との関係も浅からぬ事実もあることから、蓋し研究に値すべきものであろう。天正十八年松山城落城と共に杉山城の没落となり野に下って農耕に従事し、その地歩を固めていた一族は、七年後の慶長御縄打には御案内として召出されて新領主に奉仕したものであろう。金子藏身が当地移住に際し単にその一家族のみでなく、その近親一族を率いて来たであらうことは容易に想像し得るところで、当時の社会状態から推して必ず相当の人数を以て来たであろうと思われる。

 金子・初雁の戸数現在十三戸。その中明らかに分家と称するものを除いても五戸を数え、その祖先の年代もあまり距っていない点から見てもこの点を考えさせられる。但しその中初雁氏は一戸金子氏は四戸を数うるのは或は前記伝説の事実と一致すると思われる。後世の子孫がその遺徳を慕うて仏寺を建立する位だから藏身個人も相当な人物であったであろうし、当地におけるこの一族の繁栄もさこそと推察されるのである。藏身庵は前記の記録によると、その開祖月高道照庵主以後幾多の経過を辿り、盛衰はあったが、その記録の出来た天明二年(1782)頃は相当に堂宇も整頓していたものらしく尼僧が住むようになったのもこの頃からではないかと思われる。その後明治に入って維持困難になったためか、菅谷村千手堂の千手院焼失せるより、その本堂として売却し、あとには小堂宇を庫裡と金仏を安置する地蔵堂と共に、昔のおもかげを残して居たが、戦争中庫裡も取払われ金仏の地藏様も赤襷で応召してしまった。本堂安置の本尊は地蔵尊で内陣にある他の一躯の地蔵尊は金子慶助宅の墓地にあった仏堂の本尊である。同堂安置の位牌には「諏訪家先祖代々精霊」と記されたのや、院殿大姉の法名の位牌もあって、諏訪氏との関係あるを思わしめ、又相当の身分の女性が仏堂に入ってこヽに終わった人があったかとも思われる。近隣の尼ヶ峠の名の起りや、その上にある古い塚石と共に研究する必要がある。松山落城の悲話なども潜んでいるのかも知れぬ。又経巻の奥書に「諏訪帯刀源頼周法名葆眞院殿櫟叟千壽」と云うのがある。これも金子氏や藏身庵と何等かの関係あるものであろう。
 金子藏身や兵部の位牌の現存せぬことは墓地の判明せぬことヽ共に誠に遺憾であるが前記経巻奥書の名は、何かこれに関係あるものではないかと思われる。
 徳川時代に於ける金子、初雁一族は前記の如く名主として、その指導的役割を果し、金子二軒初雁一軒の家の当主が年令により交互にその職についたものであった。思うに、戦国時代兵農の区別判然たらざる時に於ては、古の武士の流れを汲む一族も土着してその生計を立て、徳川時代に入るや百姓としての階級に入ったであらうと云うことは、杉山の前記水帳に記された二十戸の主の名が多くは武士の名であることがこれを物語るようである。
 恐らくは杉山城を中心とせる武士の一群が城の没落と共に四散し、其の中のある者は土着して百姓となり、其の中で比較的門地身分の高いか、又実力あるものが指導者となったのであろう。
 この一族の歴史の究明が庶民史研究の一断面として一つの示唆となることを僭越ながら期待するものである。(西暦一九五〇年五月)

安藤専一『七郷村誌』(私家版)208頁〜210頁
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