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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

菅谷館跡

町の今昔 嵐山町歴史散歩 その4

菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営

                  大澤喜一

 菅谷城は、鎌倉街道に面し、南は槻川の断崖に接する要害景勝の地である。本条の本丸は、古くは畠山重忠の居城であったが、長亨年間(1487-1489)に大田源六資康によって改修された戦国時代の城郭と化したため、鎌倉期の遺構は一部を遺すのみである。
 形状は平城で、東西は谷を深く区画し、北方は台地に続いている。東より本丸、二の丸、三の丸を配し、東北西の三面は土塁がめぐり、南西の二面と北面の西半分は、土塁の外方に並走する空堀で、東面は自然の浸蝕谷によって固められている。更にその外方の東西二面は槻川に開く内外二条の浸蝕谷により限られている。外側のものは東西両面に対する防禦性を意味し、内側のものは複雑な築城土木工事により本丸北方を三重に、東よりの部分は二重に土塁と空堀で本丸を固めている。
 二の丸と三の丸は東西二郭から形成されていたと考えられ、台地内方に対する防禦性を完全に発揮している。この郭配置が示すものは中世前期の館址でなく、そのグランドプランが単郭、単堀方形館の古い館址を中核として、自然の地形條件を最高度に活用し、時代の要求に対応して各時期の支配者により、改変拡大されて、現存遺構の型式に発展した戦国時代の多郭式平城である。
 城地はほぼ方形で、その面積は十町六反九畝(約107ヘクタール)で、一辺は472メートル程である。大部分は山野水田畑となっているが、遺構はほぼ完全に保たれており、築城史上貴重な城阯として高く評価されている。菅谷城が存する嵐山町は、所謂鎌倉街道の要衝で古くより東国武士団の一拠点として、重要な位置にあった。本城より望む都幾川の対岸、大蔵の地には平安末期における大蔵源氏の棟梁、帯刀先生源義賢(菅谷村の歴史散歩その一)の居館大蔵の館があった。
 菅谷城の歴史も当然鎌倉時代にさかのぼり、本丸の一部は関東の名族として北武蔵の地に威を誇った板東八平氏(畠山、土肥、上総千葉、三浦、大廃、梶原、長田)の一たる畠山庄司重忠の菅谷館として知られた。
 畠山氏は桓武平氏、武蔵守村岡五郎良文の子忠頼を祖として、秩父郡中村郷(現秩父市)に館を構えて秩父氏を名乗り、武蔵総検校職を世襲していた。
 重忠の父は、秩父庄司重能と称したが、畠山の荘司となるにおよんで武蔵国大里郡畠山(現川本村)に館を構えて畠山氏を名乗った。重忠は長寛二年(1164)に畠山の館において三浦半島の豪族、三浦大介義明の女を母として生まれている。治承四年(1180)源頼朝挙兵に際して、父重能が平家に仕えていたために、頼朝攻略に立ち上がった。時に重忠十七才のときである。八月二十六日、一族の河越太郎重頼、江戸太郎重長、村山、山口、児玉、横山、丹綴の酷}三千余騎で、相模国の豪族三浦大介義明(重忠の祖父)を衣笠城に討つ悲劇を演じた。
 重忠の菅谷館を知る資料としては「吾妻鏡」がある。重忠は源家の重心であるから、鎌倉街道の要衝である菅谷の地に館を構えたことは当然であるとしても、その時期は詳でない。
 吾妻鏡文治三年(1187)十一月十五日の条に畠山次郎重忠武蔵国菅谷の館に引きこもり…とあるから 文治三年(1187)には、既に菅谷館の存在は明らかである。又「元久二年(1205)六月十九日小衾郡菅谷の館で」もある。いずれも幕府方の策謀略のためで、この日菅谷の館を出発し、武蔵国都築郡(神奈川県)二俣村に達したとき、即ち六月二十一日の明け方にいたり、重忠の子六郎重保が鎌倉で謀殺されたことが知れた。そのうえに重忠追討の軍勢、北条義時を大将とする葛西清重、千葉一族、足利義氏、小山朝政、三浦一族、河越次郎重時、和田義盛などの大軍が自分に向けられたことを知った重忠は、覚悟を決めて二俣川(現横浜市保土谷区二俣川町)鶴ヶ峰に対陣した。
 この時重忠に従うものは、弟の長野三郎重清は信濃に、六郎重宗は奥州にあったので、二男小次郎重秀、本田次郎近常、榛沢六郎成清以下百三十四騎と言われている。
 両軍火花を散らして戦うこと数刻、豪勇をほこる重忠も遂に申の刻(午後五時頃)に至り、愛甲三郎季隆の矢を受けて、北条時政の陰謀のもとに四十二才の惜しい生涯を閉じたのである。(以下次号)

『嵐山町報道』182号「町の今昔 嵐山町歴史散歩」1968年(昭和43)3月25日
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