第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
菅谷館跡
古老に聞く
鎌倉街道記念碑
関根茂良氏から旧鎌倉街道記念碑建立の由来を書いておくようにと言はれてから四年気にかけていたが最近は殆んど忘れていた不図筐底から当時の覚書を発見しこれに促がされて、一応建碑の経緯を記して後に残そうと試みた。今を逸すると全てを忘却し去る懼れがある。不確のところは関根氏に質した。(小林博治)
「伊昔鎌倉街道菅谷」菅谷から嵐山に通じる県道、東武バス停留所「原」から南に入り、農熾~地の西側をまっすぐに槻川へ下る道路に沿う櫟林の中に、この七文字を刻んだ鎌倉街道の記念碑が建っている。これは記念碑の裏面に刻まれているとおり、昭和三十三年(1958)四月、有志八八余名により建立されたものであるが、この記念碑建設の経緯は概ね次のとおりである。
昭和三十二年(1957)九月十五日、皇太子殿下が興農研修所見学のためお成りになった、この奉送迎中石川浅夫氏のカメラの中に偶然関根茂良、田端順一、小林博治、小林久、関根昭二、水野正男の六人が一かたまりになって写っていた。これがもとで前記六名(水野氏は病欠)が集り二葉本店で清酌閑談を試みた。秋も酣(たけなわ)の十月二十五日夜である。この席上関根茂良氏から同氏が予ねて抱懐せる旧鎌倉街道建碑のことが開陳され一同これに和して翌年桜花の頃を期してその実現を計ることになった。これがその発端である。かくて昭和三十三年(1958)一月三十一日第一回発起人会が開かれるに至るまで、建設場所の選定、碑石の調達、同志の勧誘等総て関根氏の独力で基礎的準備が進められていたが、その中で特に書き留めたいことは碑文の策定と、揮毫(きごう)のことである。
これは、文、書共に安岡先生の手に成ったものであることは万人のよく知るころであるが、何時何処でという点になると、殆んど記憶する人はないと思う。筆者もその年月については完全に忘れ去っていたが、偶々これに関係ある一文書を発見して、場所は勿論、年月日まで明らかとなった。それは一つの寄せ書であるがその冒頭に「昭和三十二年師走念七日於芝石庵愚弟相会痛飲席上」とある。これは現内閣官房副長官細谷喜一氏の筆である。十二月二十七日の夜芝の御成門付近の芝石庵という料亭で安岡先生を囲んで忘年会が行なはれたその時にかねて関根氏の依頼があって先生の「伊昔鎌倉街道菅谷」の碑文が出来上ったのである。「伊昔はこれむかし」と読むのである。三十三年(1958)一月には、発起人二十三名連名で旧鎌倉街道記念碑建立趣意書が発せられた。草案は筆者。関根氏が加刪(かさん)した。
「文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討つ時、その大軍は鎌倉を発し一は北上して、本県の西部を過ぎ、下野国から白河を経て陸奥に入っているが他の一隊は、西北に向って八王子飯能を通り上州高崎から信濃路を越え日本海岸を伝って出羽に進んでいる。今、図上にその跡を辿ると征討軍は秩父連山が東に傾いて武蔵にその姿を没せんとする山麓の丘陵地帯を通過したものと考えられ、その進路は大体今の八高線に沿ったものと想像される。
本村内に古く鎌倉街道と称せられる地点が数ヶ所存ずるが、今この地に立って、地形を相ると頼朝の遠征軍が果して此処を通り過ぎたか否か俄に之を決することは出来ないが、少くとも鎌倉から上、信、越を連ねる路線が本村内に存したことは首肯出来る。畠山重忠の故事、木曽義仲の伝説、後に上州世良田長楽寺の所領が存在したことなど、又このことを証拠づけるものと考えられる。
私達は徒(いたず)らに過去に泥んで古を重んずるものではないが、今の時代が長い過去を承けてこれを遠い将来に伝える大きな歴史の歩の一環であることを思う時、今私達が、その父祖の跡を顕彰することは、子孫に対す責務の一端であると思う。
よって玆に有志相集って、鎌倉街道跡に記念碑を建立し、これを後世に留めようと計ったのである。
尚、更に思うことは、終戦以来こゝに十年余、敗戦による混乱の期はすでに去ったといはれるが、今や米ソを頂点とする自由、共産両国家群のはげしい対立や、人工衛星出現による科学的成果の驚異に耳目を奪はれ世は挙げて魂の帰趨(きすう)を失い内に省る暇なく、国を治めず、家を斉えず、身を修めることを忘れて、世情騒然祖国は再び興亡の岐路に立っている。吾々は一大勇猛心を奮起して、この危機を突破しなければならない。
而してこの勇猛心に培ふものは、日本古来の伝統に根ざした民族精神の覚醒である。古を尚(たっと)び、伝統を重んずる私達の志が結集して建碑の計画となったのであるがこのさゝやかな営みがわが民族精神覚醒えの一つの灯になることを念願する次第である。」
関根茂良、小林博治、野口静雄、根岸忠興、笠原祥二、田幡順一、森田清、内田百太郎、内田実、杉田角太郎、高橋正忠、高橋照士、瀬山修治、関根関太郎、関口庄平、瀬山芳治、簾藤国平、長島一平、金井佐中、根岸寅次、福島愛作、安藤専一、内田家寿、
一月三十一日の発起人会では次のことが定められた。
即ち建設費は
石工謝礼 六〇〇〇円
〃 食糧 一〇〇〇円
建設工費 二〇〇〇円
石材運賃 一五〇〇円
祭事費 一五〇〇円
会議費 一〇〇〇円
諸雑費 一〇〇〇円
記念品代 三五〇〇円
計 一七、五〇〇円
とし、これは発起人と、賛同有志会員で搬出することと石工は小菅山福治氏に依頼、碑石は杉田角太郎氏、台石は、簾藤庄治氏より共に進んで寄贈の申込みがありその厚意を仰ぐこと、記念品は、手拭百本を作り、賛同者に贈ることなど、等のことであった前述のように右の諸計画及び賛同者の勧誘など全て、関根茂良氏を主軸として進められていたのであるが、更に発起人会を組織化し責任の分担を明らかにして、事業の推進を計るを可とし二月二十日左【下】の役員を選んだ。
委員長 関根茂良
副委員長 田幡順一
〃(兼書記) 小林博治
石工相談役 簾藤国平
〃 田幡順一さて軌道に乗った建設事業は順調に進捗(しんちょく)し、建碑の場所は、旧街道の俤(おもかげ)を最もよく残しているといはれる高橋照士、中島茂平両氏の山林が提供され、又四月中旬完成に至るまで、千手堂有志による台石の搬入、基礎工事、建立。遠山有志による石碑の運搬等ひたむきの奉仕作業が続けられた。尚碑裏面の文字は出野憲平氏、基礎の石積は、内田武一氏の手に成ったものである。
以上の如くして、記念碑は予定の通り完成し、四月二十四日の除幕式を迎えるに至ったのである。この日桜花には稍(やや)おくれたが、春色正に酣(たけなわ)の、古い鎌倉街道の辺りに、記念碑の除幕式が行はれ、続いて菅谷中学で祝賀会が催された。出席者は前記発起人の外
『菅谷村報道』137号「古老に聞く」1962年(昭和37)9月20日)
来賓
横川重次、村長青木義夫、議長山下欽治
賛同者
松浦高義、関根長倭、福島秀雄、島本虎雄、岡村定吉、関根子之助、米山永助、松本金兵衞、中島喜一郎、山岸宗朋、関根昭二、新井義憲、青木焉A森田与資、島崎和一郎、初雁勝吉、河野要、権田和重、権田稔、権田喜又、高橋亥一、高橋四郎平、儘田雪光、高橋甚右ヱ門、出野憲平、根岸善吉、内田清、内田茂、内田保治、内田喜雄、山田巌、小林忠一、小林久、村田富次、吉野賢治、栗原彌之助、内田孫三郎、瀬山光太郎、内田喜代作、林忠一郎、西沢光五郎、高橋重吉、瀬山善吉、関口保助、関根平三、内田佐助、西沢富次、浅見覚堂、吉野松蔵、内田直一郎、内田原作、内田武一、岩沢房之助、簾藤庄治、山下正、金井倉次郎、金井孝作、山下伝次郎、山下光太郎、小久保恭之助、福島楽、忍田福造、小久保幾喜、伊藤泰治の各氏である。