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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

菅谷館跡

町の今昔 嵐山町歴史散歩 その4

菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営(続き)

                  大澤喜一

 鎌倉時代の名将、平家物語、源平盛衰記、曽我物語などに、板東武士の典型として描かれているが戦後の歴史からはほとんどその名を消してしまっている。
  朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪 今は問ふもちぎりならずや
 この歌碑は熾仁親王の筆で、恋が窪の熊野神社にある。私はかって(昭和二十四年当時)鎌倉街道筋の歴史と伝説をたずね歩いたことがある。その折りに武州国分寺(現東京都国分寺市の恋が窪の傾城歌碑と一葉松に残る、重忠の恋物語に関する伝説を、土地の古老に聞いたことがあるが、いずれ改めて紹介することにする。現在の菅谷城は、後に修築されたため、重忠の菅谷館当時の遺構はわずかで、館址の鬼門にあたる長慶寺跡は、現在の長慶寺山東昌寺であり、寛文年中(1661-1672)に現在地へ移ったと伝えられる。
 太田源六郎資康の菅谷陣営「梅花無尽蔵」に「長享戌申(二年)八月十七日入須加谷(菅谷之地平沢山門太田源六郎資康之軍営」とされている。城主太田源六郎資康は、太田道潅の家督で、道潅の死後扇谷定正の陣営を去り、両上杉の争った長享年中の大乱に鉢形城の前線基地たる菅谷城を預かっていた山内顕定方の武将である。
 その際古い菅谷館址は修築拡大されて、戦後城郭としての型式を備えたものと考えられ、太田源六郎資康が戦国期における最大の築城家太田道潅の息子であったという事実からも考えられることである。長享二年(1488)六月十八日、扇谷定正と養子の朝良の軍勢七百余騎は山内顕定と養子の憲房の軍勢二千余騎と武蔵国須賀谷(菅谷)に対陣して激戦を展開した。須賀谷原が現在の菅谷であることは、鎌倉九代記、北条五代記、太平記などにより明らかである。
 前述の通り菅谷は当時の鎌倉街道の要衝で、武蔵府中、所沢、入間川、坂戸、と北上する鎌倉街道は大蔵、菅谷、平沢を通って奈良梨、高見、用土、児玉を経て藤岡、倉賀野と上野国に達していた。
 鉢形城の顕定は、小川を通って菅谷に出陣してきたのであろう。河越城についた扇谷定正は、北進して伊草坂戸方面より六月十七日には勝呂(坂戸町)の陣に入った。
この須賀谷原の合戦を、膝桶万里(集九)の「梅花無尽蔵」には太田源六郎資康の陣営あり。二年六月十六日には両軍の大合戦がありて戦死者七百余人馬の斃るもの数百}とあるから相当激しい合戦であったろうと思われる。
 万里は資康の父太田道潅の親友で、八月十六日入間郡越生町の龍穏寺(梅園)に道潅の父道真を訪ずねている。須賀谷原の合戦は長尾左衛門入道伊玄の活躍により扇谷定正方の勝利となったが、合戦場となった菅谷は顕定方によって占領されていた。太田源六郎資康はこの前線基地を守る顕定方の武将で、万里は次のように資康の陣営を書き遺している。
 「十七日須賀谷の北、平沢山に入り太田源六資康の軍営を明王堂の畔に問う。今また深泥の中に鞍を解く。各々その面を拝し資康の恙なきを賀す。余すでに暫く寓して去る。明王堂の畔に君の軍を問ふ雨後の深泥雲を度ねるに似たり馬足いまだ臨まず草血を吹く。細看すれば戦場の文を作るを要す」と(「梅花無尽蔵」)。
 雨後の深泥も加わって今だ決戦の余燼生々しい菅谷の地で、親友道潅の子資康の元気な姿を目の前にして、万里は感無量であったのであろう。
 明王堂は、不動明王を本尊とする不動堂のことで、新篇武蔵風土記稿巻之一九四比企郡の九平沢村の条に不動堂、不動は伝教大師作、此像古は平沢寺の本尊と伝えば、当時此地もかの寺の境内なるべしとある。
 万里は太田資康の陣営に、三十六日余り泊っていたらしく、資康は詩客万里と袂別の前夜、九月二十五日には万里送別のために、鉢形城の山内顕定を招き、平沢寺の鎮守白山社の境内で詩歌の会を催うした。(県指定史蹟の碑あり)
 この詩歌会に感激した万里は、「梅花無尽蔵」に曰く、「社頭の月 九月二十五日 太田源五平沢寺鎮守白山の廟に於て詩歌会。敵塁と相対し風雑を講ず。ああ西俗この様なし」と。
 関東武士が敵前で風流をたしなむことに感激しつつ、関西武士にはないことだと万里はいっている。
 菅谷はその後、小田原北条時代に北条方の小泉掃部助が城代となっている。したがって武州松山城関係の支城と考えられるが、明らかでない。菅谷城が前哨的な位置を占めたのは、両上杉の対立時代に重要性があったからで、北条氏の関東制圧の頃は、その価値を失っていたものと考えられる。嵐山町文化財保護委員
日本歴史研究会理事

『嵐山町報道』183号「町の今昔 嵐山町歴史散歩」1968年(昭和43)4月25日
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