第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
木曽義仲
ゆかりの班渓寺(鎌形)で源家三代の霊をとむらう
大蔵の館に住み、おい悪源太義平に討たれた源義賢公、この地に生まれ、いとこ源頼朝に討たれた源義仲(木曽義仲)、人質の身、鎌倉から逃れてこの地への途中、義父頼朝に討たれた源義高、この悲運の父子三代の武将とそのゆかりの小枝御前(さえごぜん)、山吹姫の霊を弔う慰霊祭が行われました。
義仲の命日である一月二十日、ところも山吹姫開基の班渓寺本堂で、発起人をはじめ、町長、議長、地元関係者など約五〇人が集まりしめやかに行われました。
住職によるたむけの読経、町長、議長、発起人代表の義仲らをしのぶ言葉、そして参会者による焼香などが行われました。
歴史資料館々長も姿を見せ、雑誌、新聞からも取材に来るなど、地味なうちにも価値ある催しとなりました。源家三代について
発起人代表簾藤惣次郎
『嵐山町報道』278号 1979年(昭和54)2月15日
帯刀先生源義賢は大蔵に館を構え、鎌形の下屋敷に上野国多胡氏の娘小枝午前を住まわせその間に義仲が生まれた。久寿二年八月十六日、義賢は悪源太義平に討たれ二歳の義仲は畠山重能、斎藤実盛の慈悲で、乳母の夫木曽の中原兼遠の所へ送られ成人した。
義仲は以仁王の平氏追討の命を受け、信濃に兵を挙げ平家を都から追ったが、義仲追討の命を受けた頼朝との戦にやぶれ、寿永三年一月二十日、相模国石田次郎のために近江粟津の辺において討たれた。
これより先、義仲は木曽の中原兼遠の娘山吹姫を妻とし、嫡男義高を設けていたが、寿永二年三月頼朝の軍との戦をさけるためこの義高を人質として鎌倉へ差し出した。義高は、頼朝の娘大姫を婦人として、鎌倉にいたが、義仲の死後身の危険を感じ、鎌倉を脱出父義仲の生地鎌形を目指しての途路、元暦元年四月二十六日、頼朝の家臣、藤内光澄によって、入間川で討ち取られた。