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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

木曽義仲

町の今昔
嵐山町郷土史片々(十一)

木曽殿と木曽ぞの橋 —木曽義仲に因んで—

町文化財保護委員長 長島 喜平 

 木曽義仲は、鎌形で誕生したと伝えられている。
 「木曽義仲産湯の清水」と石に刻まれ、鎌形八幡神社境内に建てられている以上、たれもが真実と思うのは無理もない。
 江戸時代、修験(法印)の桜井坊の簾藤某なるものが、自ら刻んで建てたとか。(現在の簾藤甲子治氏先祖)
 県では旧跡として戦前県指定としたが、戦後指定解除した。
 それは真実性に乏しいからである。義仲が鎌形に生まれたことすらはっきりと知るすべもない。
 義仲の父義賢が、大蔵の館にいたことは、古い文献にもある。
 今残る大蔵の館跡がそれで、義賢より後に大蔵氏なるものが、この地に居住している。
 義仲は、この館に生れたのかも知れない。
 なぜ、義仲が鎌形で生れたと語り伝えられたかというと、大蔵の館は悪源太義平に攻められ、いわゆる大蔵の戦で義賢は戦死した。(平家物語による)
 この戦のため、義賢の妻山吹姫は、鎌形にのがれ庵をつくり、義賢の菩提を弔ったとか、それが班渓寺なるものの濫觴とかいうが、どこまで真実か、真偽のほどは、わからない。
 こうしたことより、鎌形にて義仲は出生したこととなり、果たして大蔵にて生れたのか、鎌形にて生れたのかわからない。
 それは、どちらでもよい。
 しかし、鎌形に住む人達にとっては、義仲が鎌形にて生れ、八幡神社の清水を産湯につかったとしたほうが、郷土を愛する夢としてよい。
 山吹姫なるものも、義賢の妻であるともいい、義仲の妻ともいいそれについても、はっきり知るすべもない。
 山吹姫の位牌は現在班渓寺にある。しかし、それすら後世(江戸時代の作)のものである。
 更に鎌形には、義仲に因んで、「木曽殿屋敷」と呼ばれるところが、班渓寺の西側にあって、近くに木曽殿清水がある。
 土地の人は、またいう。
 こちらが本当の「義仲の産湯の清水」だと、なぜなら、木曽殿屋敷が、ここにあったのだからという。(木曽殿屋敷については、新編武蔵風土記稿にある。)
 木曽殿なる地名は義仲の英雄を慕って後に付けられた地名なのか義仲が一時的にもこの地に移り住んだものか、今はその屋敷の跡すら不明である。
 もう一つ義仲に因み「木曽ぞの橋」なるものがある。
 鎌形地内の植木山から中島を通って玉川村に通じる県道の橋で、わずか数メートル、ここには、西方から流れる川があって、橋のあたり深い小さな渓谷らしき地形をなし、土地の人は妻の川とよぶ。
 今、その橋は、妻の沢と書いてある。
 昭和三十八年(1963)頃、架けかえた時、県の東松山土木事務所で、そう書いてしまった。
 それはそれとして、この橋の別名「木曽ぞの橋」と刻んである。
 明治年間か、県道の開通した時架設された木桁の橋は、「木曽殿橋」とあったという。
 その時、どうして木曽殿をここに、ひきだしたものか、はっきりしない。
 思うに、鎌形が義仲に関係しているので、この橋を「木曽殿橋」と当時の人の命名であろう。
 それが更に大正末期か昭和の初め、架けかえの時に問題となった。
 その時この橋の架設担当の県の土木事務所のものの手により「木曽ぞの橋」と書いてしまった。
 その頃、菅谷小学校長宮崎貞吉氏や当地の小林仙造氏が、時の村長杉田富次氏に木曽殿と訂正するよう再三促したので、杉田村長も県へ連絡したところ、「橋の名称などは、単なる符牒なのだから問題でない」と一蹴されてしまったということである。
 しかし、そのため「木曽殿」か「木曽ぞの」かは、今でも土地の人々の話題となり、疑問として、とどまるところを知らない。
 さらに、ここに訪ずれる人々はこの橋の名を重要視して、なんとか木曽義仲に関連づけようとしている。
 地名等のおこりには、過去の発展を物語るものが多いが、この橋の名称は、まことに無責任にすぎこのわけを知らない人々は長く話題とすることであろう。
(筆者は埼玉県立川越工業高校教頭 埼玉県郷土文化会常任理事)

『嵐山町報道』225号「町の今昔」 1972年(昭和47)9月15日
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