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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

笛吹峠

古老に聞く

笛吹き峠の記念碑
     福島愛作氏

            ——小林博治

 「君のため世のためなにかおしからん、すててかひある命なりせば」(新葉和歌集)

 正平七年(1352)閏二月二八日新田、足利の会戦が小手指原に展開された。征夷大将軍宗良親王(むねよししんのう)は親しく、官軍将兵の部署を定め、この歌を作って、全軍を鼓舞し、為に官軍の志気は大いに振ったといふ。笛吹峠は、時の官軍の本陣である。即ち太平記笛吹峠の軍の条に「小松生ひ茂りて、前に小河流れたる山の南を陣に取りて、峰には錦の御旗を打立て、麓には白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・棕櫚葉(しゅろのは)・梶葉(かじのは)の紋書きたる旗共其の数満々たり…」とあるここは往昔、鎌倉往還の大道であり、南は今宿、苦林、入間川を経て、武蔵府中から鎌倉に通じ、北は将軍沢、大蔵より菅谷に至り、上州の児玉、勅使河原を通って前橋近くの府中に達するもので、鎌倉と上野、信濃、越後地方を結ぶ主要交通路であった。新田義貞の鎌倉攻めも大体に於て、この通路のよったものとされており、宗良親王も又、この峠に錦旗を立てられたのである。

 さて、世変り時移り、昭和十九年(1944)、戦争も末期的様相を呈し、敵機の本土上空に跳梁する漸く激化した頃だという。一日、東京尾久の産業報国会の一行が、嵐山で、練成会を開いた。
 この時、当時村の助役であった福島愛作氏は、この会の講師を委嘱され、この地方の歴史的伝説等について説明し、最後に笛吹峠の古戦場を紹介し前掲の宗良親王の和歌を朗唱して、講義を終った。戦、必ずしも利あらず、敵機の蹂躙下に祖国を死守せんと決意する当時の人々の胸に、この歌はひしひしと響くものがあったという。蓋し、南朝勤王将兵の心事に、思相通ずるものがあったのであろう。
 笛吹峠が文化財史蹟として県の指定をうけたのが、昭和十年(1935)。地元、菅谷、亀井両村により「笛吹峠保存会」が結成され、記念碑の建立が企画された。即ち、県助成金として、両村へ三十円宛、他に村からの補助もあったが、その額は明らかでない。この補助金については地元村議小久保代吉氏の画策するところ、与って大いに力あったという。菅谷村長は杉田富次氏、亀井は小峰寛一郎氏である。碑は、両々村境を東西に通ずる巡礼街道(慈光山が板東9番、岩殿観音が10番の札所に当る)と、南北に貫く鎌倉街道との交点、亀井村寄り村有地に建てられ、記念碑周辺の景観を守るため、特に須江の日野両氏に要請し、隣接同氏所有山林、松樹等の保存につとめらるべき旨了解を得た。

 記念碑は、表面に、「史蹟笛吹峠 埼玉県」を一行に刻み裏面には「正平年間の戦蹟にして、建武中興関係遺蹟として名あり、今回埼玉県の指定に基き、菅谷亀井の両村長が保存を協議し、当所を選び、時恰も建武中興六百年に際す。即ち記念保存の為に之を建つ。昭和十年参月。笛吹峠保存会」と記してある。撰文は県史編纂官稲村坦元氏、筆者は福島愛作氏である。福島氏は時に将軍沢区長であり記念碑建設委員長の任にあった。令正に四十才。男盛りの頃だという。表面史蹟笛吹峠の文字は、特に精魂を傾けて揮毫したものだと同氏は語った。福島氏の朗唱する宗良親王の和歌が聴衆の心魂をゆさぶったのも斯くして偶然ではないことを知るのである

『菅谷村報道』134号「古老に聞く」1962年(昭和37)6月10日

新葉和歌集(しんようわかしゅう)…南北朝時代の和歌集。後醍醐天皇の皇子宗良親王(1311-1385?)撰の準勅撰和歌集。吉野に戻った宗良親王が南朝側歌人の和歌だけを選び、1381年(弘和元)、南朝の長慶天皇に奏覧。

 他に新葉和歌集で有名な歌として、以下のものがある。

故郷(ふるさと)は恋しくとてもみよしのの花の盛(り)をいかがみすてむ

いかてほす物ともしらすとまやかたかたしく袖(そで)のよるの浦浪

思ふにもなほ色浅き紅葉かなそなたの山はいかゞしぐるゝ

しげりあふさくらが下の夕すゞみ春はうかりし風ぞまたるゝ

君のため世のため何か惜からん捨てゝかひある命なりせば

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