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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

笛吹峠

町の今昔

史蹟・笛吹峠

 大蔵から南方将軍沢を越えて、鳩山村須江(すえ)に入り入間郡に通ずる町村道路がある。この将軍沢と須江の境界が太平記に名高い笛吹峠である。その昔先進国上野と多摩の国府をつなぐ大動脈であった。
 日本武尊時代の軍旅の動きや、桓武帝の頃征夷大将軍坂上田村麻呂の東征筋、鎌倉の末新田義貞が北条高時を滅ぼした時も、その子義興(よしおき。新田義興)・義宗(よしむね。新田義宗)らが足利尊氏と争った時も、この道筋が用いられたものと想像される。
 笛吹峠の地名起因の伝説として次の三説が古からこの地方に伝承されている。

 その第一は坂上田村麻呂にまつわるもので、当将軍沢の地名も笛吹きの名も田村麻呂将軍に起因されるものと云われている。
 鎌形村八幡宮縁起に「桓武帝の朝、坂上田村麻呂勅命を奉じ、東奧の夷族征伐の途次関東に赴かれしみぎり、当所塩山の絶景を愛で筑紫の宇佐八幡をここに勧請し給ひ……」と記され、その道筋に当たる将軍沢も同将軍に関わりを持つことはうなづける。
 この頃岩殿山に悪竜出没して常に人畜を悩ましていた。たまたま此の話を耳にした将軍は、この悪竜退治を引受け、岩殿山中を西深く分け入りこの峠で悪竜呼び出しの笛を吹き、笛の音に躍り出た悪竜を見ごと退治することが出来た。爾後に峠名にされたものと云う。

 其の第二は新田氏兄弟に関係したものである。
 正平七年(1352)、新田義貞の子義興、義宗が後醍醐天皇の息子宗良親王を奉じて信州に挙兵し、上州から街道を上りこの笛吹峠を経て鎌倉の足利尊氏、直義を討とうとしたが、鎌倉勢は意外に強く之に怖気立った新田方は多摩郡分倍川原に退き小手指が原でも利なく更に後退してこの笛吹峠に陣した。この時新田勢の総師宗良親王は、名月に誘われ陣営の夜々の無聊を名笛に慰められたことから、この名が起ったと云われる。

 その第三は畠山庄司重忠に関係するものである。
 重忠は大里郡旧本畠村(川本町。現・深谷市)畠山に居城を構えていたが、後鎌倉街道の一要衡地に当る当地菅谷宿のその別館を築いた。その後は鎌倉出仕の際はいつも菅谷館か向ったもののようである。
 菅谷から笛吹峠までは約一里程で乗馬すれば短時間で着ける。重忠も笛を愛好したものと思われ、菅谷館からよく峠に出向き、名月を友に笛を吹かれたので、この名が生じたのだと云う。

 いづれを問わず有名地にはくさぐさの伝説がつきものである。その一つだけが真実で他は皆うそだという考え方は無謀である。私はこの三伝説とも各武将の一面を物語るもので一応うなづける語り草と思う。
 当笛吹峠は昭和十年(1935)三月史蹟として県指定となったが、昭和三十六年(1961)の整理によって解除され、現在本町指定の史跡として、多くの人たちから詩情豊かなものとして慕われている。
(報道編集室 安藤) 

『嵐山町報道』181号「町の今昔」 1968年(昭和43)2月20日
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