第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
武蔵嵐山(嵐山渓谷)
細原 (ほそばら)
大平山の裾を洗つて南流する槻川は、塩山の北壁に当つて大きく転回し、北に方向を変へて再び大平山の南麓につき当り、東に転じて都幾川に向つて流れ去る。この南流する槻川が北に方向をかえ、東に向つて流れる水路の内側にかこまれた地域は半島状をしその大部分は芝生と赤松に覆はれた平原である。
『菅谷村報道』85号 1957年(昭和32)11月30日
この地形から古くこの地を細原といつていたが、大正の末に都の一人士がここに一屋の文化住宅を営み、菅谷花月園と称した、前後を大平山と塩山にかこまれ、西には小城址【小倉城址】を仰ぎ、東は槻川の水が、広々とした関東の大平原に目を導く。正に桃源郷ともいうべき勝地である。この文化住宅が機縁となって、この仙境は忽ち東都の人々に紹介され、同じ頃、東武社長根津嘉一郎氏が訪れ、関東一なりと激賞して「新長瀞」の呼称が起るようになつた。細原は嵐山の発祥の地であり嵐山の心臓部である。
(写真 細原の芝生と松林)