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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

武蔵嵐山(嵐山渓谷)

熊中生、徹夜で熊谷〜武蔵嵐山間往復の発火演習

 1925年(大正14)、現役の陸軍将校が中学校以上の学校に配属され、軍事教練を担当した。その訓練の1つとして、当時の県立熊谷中学校では熊谷〜武蔵嵐山を往復する発火練習も行われていた。発火演習は、銃砲に火薬だけをこめ、実弾は使わずに行う射撃演習である。
 ここでいう武蔵嵐山は、現在の嵐山渓谷の細原(半島部分)のことである。

夜通しの発火演習

豚汁のごちそうをいただく|挿絵

 行事の一つでつらかったのは、二日一晩の発火演習だった。前日の午前中、武装して校庭を出発。追いつ追われつの攻防戦をくりかえしながら西に進む。
 松山町【現・東松山市】を過ぎ、まだまだ先へ……。夕方おそく目的地の武蔵嵐山へ着く。
 ここで地元の婦人会総出で熱い豚汁をごちそうしてくれる。ハラペコの所へこの豚汁のうまさはカクベツ……。ハラの皮がつっぱって下が向けない程、たらふくつめこむ。
 ひと休みして又、銃をとって、夜通しの演習をしながら、帰路につく。

夜通し歩く|挿絵

 寝静まった、ま夜中の松山町を通りすぎる時は、みんな話声も出さず静かに歩いた。安眠をさまたげないように……、と注意をされていたからだ。
 昨夜(ほんのさき程)のブタ汁はうまかったが、若いカラダはもうとっくに消化してしまい、再びハラペコと疲労と睡魔とにおそわれて……。
 重い銃が肩にくいこむ……。歩きながら、ねむってる。水たまりも牛馬の糞も、よけて通る気力はない。……何時間かがすぎて、東の空がようやく明るみを帯びてきた。
 あと一息だ!熊谷はもう近い……とはげます声も、あとの方はかぼそく消えて、当の本人も、あるきながらねむったようだ。フラフラになって母校の校庭にたどり着く。

権田竜太郎画・大澤俊吉編集製作『熊中時代絵日記帳』*1(1985年5月発行)

*1:1932年(昭和7)4月埼玉県立熊谷中学校入学、1937年(昭和12)3月卒業の第38回卒業生である権田竜太郎氏が旧制中学時代の想い出を「漫画日記」50枚にまとめたもの。「みどりっぽい色の服」の中学生(金子兜太)、「綽名(あだな)で語る恩師列伝」(大澤俊吉)と併せ、行田市で開かれた第38回熊中同窓会の記念誌として、1985年に自費出版された。

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