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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

武蔵嵐山(嵐山渓谷)

東にも『嵐山』あり 東京を離れて僅か一時間半の景勝
     東日本新名物(埼玉縣)=四十三=

「武蔵嵐山」——投書により始めて行って見て東京からわづか十里ほどの所に、こんな立派な景勝地があるかと驚かされた、単調な武蔵野に変化を与へる秩父山脈、その大平野と山脈がかみ合つた一角——埼玉縣比企郡菅谷村にいはゆる「武蔵嵐山」があるのである。省線池袋駅から東上線で約一時間半の行程だ「武蔵嵐山」の名は今から三年前(1928)、本多静六博士が命名したもので、由来を聞くと—「わしがあのけい谷の奥にある山寺の住職本多文教さんに案内されて始めてあの景勝を探つたのは山といはず、けい谷といはすべた一面に紅葉に彩られた秋だつた。百余年を経た亭々たる松林、幾十尺の岩頭にはひ上る真紅のつた、白砂を洗ふ清い水、岩間に雪を吹く激流実に京の嵐山の景そのまゝだったので思はずこれは武蔵嵐山だ!といつたのがそのまゝこの地名となつたもので兎も角関東平野にまれに見る景勝地たる事は疑ひありません」と折紙をつけてゐる。
               ◇
自動車で菅谷駅から約十分で槻川の釣橋に達する。この辺、白砂とこんぺきの流れのしまがはるか谷合ひの奥深くまで続いてゐる。西方を眺めると大平山のなだらかな尾根と墨絵の様な塩山の起伏する線とが相抱くやうに見える地点——そこが「武蔵嵐山」なのである。自動車は夏の日盛りにさへヒンヤリとする老松の森林帯をぬつて上り道を行く。塩山の尾根の突端が直立した数十尺の大厳壁をなしてこんぺきの深淵がその下にたゝへられてゐる。
               ◇
月川のけい流は大平山の尾根の突角をU字型にめぐつて塩山の根をかみ更に大平山の裾を洗ふてゐる。昼はあゆ、山魚の群が躍り、夜は河鹿が鳴くといふこのけい流を小舟でさかのぼり武蔵嵐山の裏手に出ると、その水辺から小倉山腹までやゝ開けた傾斜地に二十戸余りの小倉の部落がある。川筋のさゝやかなわら屋には大きな水車がコトンコトンと芝居の書割そのまゝの形で動いてゐる。
清流にさをさす船頭さんの話「小倉の衆は大昔戦で負けたがこの山奥へ逃げこんだんだつてえ話だ。何でもその時はお城がすっかり焼かれちまつたんで、今でもこの付近の山は春になるとべた一面火の様なつゝじがさくんださうだ。何でもおらァ若え時分までは小倉の衆はよその村とてんで往来はしなかつたもんだ。昔ッから余り貧乏はしねえつていふが今でもみんなにやってゐるだよ。」
               ◇
このあたりの、かうした絶勝は今でこそ世間から忘れられてゐる形だが、実は何百年も前から既に当時の豪族等に知られて幾多の英雄共がここに居を構へてゐたといふのだから驚く。この付近の木曽殿屋敷(木曽義仲の出生地)の八幡神社に伝はる古い縁起巻物を見ると、紀元千四百五十年以降のこの地の史実が記されてあり、「武蔵嵐山」の風光をも激賞してある。
その一節に
「……勝地を看るに山ぜんたい滑らかに巨岩ががたり……東は上原の谷、西は小倉山……麓は月川のけい流めぐりたたへて満蔵のふちとなる。跳石飛石など奇怪なる盤石連りて四顧の勝景さながら神仙の霊境かと疑はる……」
とあるが、あながち誇張的形容詞では無い。
               ◇
この付近一帯は到る所史跡にも富んでゐる。坂上田村麻呂が東征の途上この塩山に足を止めたといはれその南東に当時の陣営の地、将軍沢と刺止山がある。また将軍を慕ふ若い女性が将軍との別れを惜んだといふ不會ヶ原、不聞ヶ森、縁切橋……。などゝいふ所もある、また源為義の第二子帯刀義賢が甥の悪源太義平に殺されたのもここだ。大蔵堀の館跡には義賢のこけむした塔状の石碑がある。降つて南北朝時代に新田義宗の奮戦した笛吹峠の古戦場も間近に見える。月川と都幾川合流點から数丁の下流槻川に添うて畠山重忠の城跡もある。[写真、武蔵嵐山のあたり]

『朝日新聞』1930年(昭和5)8月15日

鎌形八幡神社の清水(手水)|写真
「東日本新名物」に「武蔵嵐山」が紹介された記事
『朝日新聞』1930年(昭和5)8月15日


江戸時代に書かれた『鎌形八幡宮縁起』にも、「勝地を相るに苔蘚滑に巌峨々たる険岨にして東ハ上原の谷西ハ小倉山南を小窪と云麓に月河の水流満蔵渕前後にはね石とひ岩なとゝて異なる盤石ならび列り観る人目を駭かせり昔時潮湧出しとて塩沢と云る湿地あり塩山の称号も是れ本ずける名也とそ山の半腹に奇しき窂あり土俗呼て貉の京と称す爰を攀て杳に峯頭に騰れば比類なき四顧の佳景さながら神仙の霊境かと疑はる……」とある。

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