第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
鬼鎮神社
昔の光今いずこ 菅谷村の鬼鎮神社
アルバイトで細々 万を超した参詣者無し比企郡菅谷村の鬼鎮神社は武の守護神として県下はおろか全国に鳴り響いた神さま。戦争中は日に二、三千、多いときは万を超す参詣人で文字通りおすなおすなの大盛況であった。かくも盛になった原因は今を去ること七百六十余年の昔秩父の庄司畠山重忠が菅谷城を築いた際、城門大手の東北に、鬼門除けにこの社を祭ったという縁起もさることながら、神官河野氏の奮戦よろしきを得た結果だったらしい。
『埼玉新聞』1951年(昭和26)7月7日
時あたかも日支事変の初期、青壮年が続々と召集されていくとき河野氏がほん走してベタ金(将官)を主体とした鬼鎮奉戴会を起した。将官連が参拝すれば何ごとも上へ、右へならえのときとて「余程ご利益があるのだろう」というウワサはウワサを生んで応召者はもちろんのこと、家族友人知己に至るまで参拝に次ぐ参拝、遠く関西、北海道方面からの信者もおしよせた。
また東武鉄道と組んで往復の運賃祈願料をかみ合わせたクーポン券を発行、戦争末期乗車制限時代にも「鬼鎮さまへお参り」とあれば切符も買えるし特別電車も出したというから肥ったのは神社のふところのみでなく東武電車も余程ご利益のお裾分けにあずかったらしい。神社の周囲に参拝者目あての宿屋、飲食店が十一軒に及んだのも当時の豪盛さがしのばれよう。
調子にのった同神社では満州独立守備隊全員に守り札を送るべく付近の女子青年団を動員、徹夜作業を続けたり、満州に分社を建てる計画を立てたが、この夢は実現せず終戦、八月十五日を境として参拝者はパッタリ途絶えてしまった。工場ならとにかく神社とあって急に転向というわけにもゆかず、八人の職員を半分に減らし封鎖された金の引出しに苦心しながら居食いを続け、これではならじとアルバイトに力を入れてどうやら今日に及んたわけである。
祈願料百円、月詣祈願料五十円、特別祈願料二百円と明記した紙はぶらさがっているがせいぜい一日二、三人しかない。「これではとても四人の職員は食べて行けません。徳川時代武士から寄進された鉄棒も三万貫もあったのですが献納してしまいましてナ、今の相場では百五十万円位にはなるんですから惜しかったですよ」これから外祭(神主が信者の家を回って祭りをする)でもさせようかと思っていますが」とは河野氏沈痛のことばだった。(終)