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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

鬼鎮神社

町の今昔

鬼鎮神社祭神は衝立船戸大神

         —— 武蔵野の歴史より ——

 武蔵嵐山駅の東北方八〇〇メートルの所に鬼鎮神社という社がある。駅の付近は、どこでもそうだが、新しい道路が発達するので、地図をたよりに歩きにくくなった。ここもその例に洩れず、駅の東側に南北に貫く新道ができて少しまごつくことになるが、流行神であるから鬼鎮神社はすぐわかる。人に聞くまでもない。新道の中間に一本立った指道標の、一方の腕は向こうに見える森に矢印をむけて鬼鎮神社とあり、一方の腕には初雁城址とある。これは川越城址ではなく、後に述べる杉山城趾であろう。
 鬼鎮神社は同社の縁記によると祭神は衝立船戸大神となっている船戸の神あるいは具奈上神で、つまり道祖神の発展したものと考えられる。一般の神格観念からすると第三流ともいうべきで、それほど由緒正しい神というわけにはいかない。それだけにまたこの土地に自然発生した古い信仰の対象とも見られるわけである。武蔵嵐山記稿に「鬼神明神社、村民持」にあるだけである。旧名は鬼神社で、鬼鎮と名づけたのは最近のことと聞き及ぶ。俗信仰としてはバクチの神さまといううわさもある神域のかもし出す雰囲気は、神仏習合の社ようでもあり、祈祷所のようでもあり、普通神社の空明なものとちがい、人間の動きが充満している感じだ。賽銭凾の上に鉄の棒だの、こわれたカジャような鉄屑が山と積んである。二メートルにもある鉄棒が寄せかけてある。けだし鬼にかな棒のわけであろうが、こうなると村境に立つ道祖神の、寂然とした面影はなくなってしまった。
 御神木に選ばれた杉の木はあまり巨きな木ではない。かえって社務所の横手から斜めに乗り出したクヌギの方が見事である。樹齢二百年ぐらいのもので、新緑のころにはすばらしい浅みどりの旗印を揚げて神社のよき目標になっている。

 以上が『武蔵野の歴史』から抜萃したものである。戦時中は武神としてにぎわったが、現在は疫除け、養蚕培増加護神として賑わっている。(編集室) 

『嵐山町報道』193号「町の今昔」1969年(昭和44)3月25日
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