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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

鬼鎮神社

変った節分祭 菅谷村の鬼鎮神社
     余興たっぷりで大宣伝

「福は内、鬼も内」といふ変った追儺(ついな、おにやらい)式を行ふ比企郡菅谷村川島の鬼鎮神社に於ては年々節分会に参会するものが増すにつれ本年も大々的に宣伝することに準備がなってゐる。本年も例年の通り午後六時追儺式が執行されるが、余興として煙火、芝居、福豆授与、福引等があり、善男善女で賑ふことであらう。

『埼玉日報』1934年(昭和9)1月28日

鬼鎮神社の豆まき
     本年は一段のにぎはひ

鬼鎮めとして全国的に其名を得た菅谷村川島の鬼鎮神社では、吉例によって二月三日、節分追儺祭を大々的に奉行して、大にしては国家の基礎より又一般信仰者の安全を祈願するが、尚当日は参詣者一同に福運【福豆?】を頒(わか)つと同時に、余興として福引を出し、煙火、芝居等まで為すから一層の賑を見るであらう。

『武蔵野月報』17号(1934年2月1日発行)

箭弓社節分祭 松山芸妓も総出動参加

松山町の県社箭弓稲荷神社では例年の通り東都から年男年女を迎えて午後八時社殿に於て大追儺式を執行するが例年の通り松山芸妓も大丸髷姿で追儺式に参加すると。なほ例年の通り余興には神楽、煙火、福引の催があると。

『埼玉日報』1934年1月28日

各地のついな祭

○小川町成田山
遠く明治時代から毎年行はれて来た小川地方代表的の豆まきである。本年は午後八時より小川料亭菊水を年男の楽屋として上品寺鈴関師によって大護摩を修行せられる。年男は申込によって採用される。

○小川町千日堂
一昨年あたりから子育呑龍の意気込で七才の小児を年男として福引を出してゐる。本年あたりは相当賑かであらう。

○槻川八幡大神社
昭和元年頃からの企てであるが、同地の高橋社掌の尽力と氏子崇敬者によってますます広くなり、近頃では付近に名を響かせるまでになり、今年は一層地元人士の奮発によって、種々催し物から福引まで添へ、前景気又盛なものである。

○大河原 能木神社
これも地元信仰者によって盛大に行はれ、殊(こと)に本年は氏子総代の努力と馬場師等の熱心によりて、神前に福運を迎へる人等の山を見ることであらふ。

○竹沢 金比羅大神
神道修成派埼玉県第一教務支局竹沢氏によって奉行され、宣伝をせぬからあまりに知られて居らぬが、堅実を以て追々地方に認められて来るであらう。豆まき式は午後五時。

『武蔵野月報』17号(1934年2月1日発行)
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