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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

花は愛惜に散る —桜の花を訪ねて—

 春はさくらの季節である。花を求めて町内を歩いてみた。
 すでに昭和四十年(1965)と四十一年(1966)の二年にわたり、嵐山町のさくらを訪ねて歩き「花だより」として本紙に掲載した。十五年後の今日、再び訪ねてみるとうたた時勢の転変を感ぜざるを得ない。歴史とはかくの如きものか。また人の世とかくも移ろいやすきものか。花は愛惜に散るものを。

さくらの花散りぢりにしも
  別れゆく 遠きひとりと
    君もなりなむ  釈迢空

菅谷小学校のさくら

菅谷小学校の桜|スキャン画像
(菅谷小学校のさくら)

 新学期はさくらの花とともに始まる。黄色い帽子に新しいランドセルの新入生が校庭に並んでいた。
 四本の老木は大きな枝を伸ばし花はまっ盛りであった。
 花は幾たび子供たちを迎えたことであろう。「年々歳々 花相似たり、歳々年々 人同じからず」と歌った中国の詩人の言葉が思われる。
 運動場が広がったので、かって校庭の土手際にあった桜の木は今ではグランドの中央になった。
 菅谷尋常高等小学校が商工会の事務所のある地にあった頃の昭和三年、御大典記念に植えられたものだという。昭和十二年十二月*1、大火に逢い学校も焼け、各所に分散して授業したが、十四年*2にここに建設された。その時、桜の木は運ばれてきたものである。焼け残った桜の木をいとおしむ人たちの心がそうさせたのである。

*1:昭和10年(1935)12月が正しい
*2:落成式は昭和14年(1939)3月30日だが、昭和13年(1938)9月に新校舎の使用は既に開始されている。

 いままた古い木造校舎は取り壊されて鉄筋の新しい校舎が建った。この老木もやがて消え去る時がくるだろう。だが新しい桜の木は植えられていない。やがて学校に花の咲かないさびしい春がくるのだろうか。

大妻嵐山女子校のさくら

大妻嵐山女子校の桜|スキャン画像
(大妻嵐山女子校のさくら)

 校庭にもテニスコートにも道にも白くさくらは散っていた。
 新しい学校だけに桜の木も若い昭和四十二年(1967)開校時からの桜の木であろう。校庭に数本と千手堂への道に沿って並木のように校庭側に植えられている。
 風が吹くたびに花びらが雪のように散った。
 ラケットを振る乙女たちのはずむ声にも、ベンチで読書するセーラ服ーにも、散策しながら語り合う少女の髪にも、そして夢みる青春の瞳にも、花は散りに散る。

菅谷館跡のさくら


(菅谷館跡のさくら)

 悲劇の武将畠山重忠は今も鎌倉を望んで屹然(きつぜん)として建っている。
 元久二年(一二〇五年)の館跡も面影をとどめている。
 歴史は移り人変り、さくらは今日も散っている。
  天地の悠たるを念(おも)い
  独り愴然(そうぜん)として下る
 と詠じた中国の詩人を想いつつ
 この日、城跡の一隅で盃を挙げる吾らが、観桜のうたげにも花はただ散るのみであった。

平沢寺のさくら


(平沢寺のさくら)

 不動さまと白山神社と平沢寺は同じ高台にある。
 ひっそりとした境内にさくらだけが散っていた。
 白山神社には「太田資康詩歌会阯」の碑が昭和十五年(1940)建てられている。碑に云う「月ヲ観賞シ風雅ヲ講ズトイヘルハ即チ当所ノ事ニシテ当代武人ノ風格ヲ偲ブベキ遺址ナリ」と。
 この地を訪れた万里僧は「社頭の月」と題して詩を作った。
  一戦勝ニ乗ジテ勢尚加ハル
  白山ノ古廟沢南ノ涯
  皆知ル次第ニ神助有ルヲ
  九月春ノ如ク月自カラ花ナリ
 平沢寺は天台宗の寺院で三十六の堂坊がありかなり大きな寺で一の門は青鳥に、二の門は延命橋にあったという。
 これらの堂坊は天正十八年(一五九〇年)松山城落城の際焼失したと云はれる。
 この時、寺の釣鐘が前の田んぼに落ちたまま埋もれていると伝えられている。地元の人たちは、この釣鐘を掘り出すよう町に頼んでいる。
 平沢寺には県指定考古資料の経筒があるが蓋がない。話によると経筒の価値を知らない坊さんが煙草の灰たたきに使って一緒に持って行ってしまったのだという。
 平沢寺の下にアカ井の水と呼ばれた井戸があり絶ゆることなくきれいな水が出ていた。地区の人たちは、この水を汲んで家まで運び生活用水にあててくらしてきた。昭和三十三年(1958)に新農村建設事業として共同給水施設をつくり、ここを水源にして水を各戸に引いて苦労は解消した。
 今日、平沢寺の七堂伽藍の壮大さも、武蔵武士たちの合戦の激しさも、肩で水をかついだ生活も、昔の面影はどこにも見当らない。

チサン団地のさくら

チサン団地の桜|スキャン画像
(チサン団地のさくら)

 チサン団地として分譲が開始されたのは昭和四十六年(1971)九月からである。まず川島に近い県道の北側が売り出された。その後、志賀の地域に属する一帯が整備されて住宅が建てられた。桜はその時植えられたものであらう。メイン通りを見通すと桜並木が花やかな色どりをそえている。
 桜の木の間隔がありすぎて少しさびしい気がする。

将軍沢のさくら

将軍沢日吉神社の桜|スキャン画像
(将軍沢日吉神社のさくら)

 将軍沢には明光寺の境内に数本と日吉神社の参道に三本のさくらがあった。いずれも十数年しかたっていない。村社日吉神社と書かれた御影石の隅に小さな石が保存されていた。表には「田村将軍入口」と朱書きされている。裏には「旧跡○○……ア」と同じく朱書きされているが、何と書かれて、あるのか読めない。
 大正六年(1917)に建てられた旗立てがあり、赤い鳥居をくぐって進むと老杉が四本並び、その先にさくらの花がぱっと咲いていた。新築の建物がまず目につく。出来上がったばかりの集会所である。その隣りに白木の鳥居のある小さな社がある。これが将軍様を祀った社殿である。祀られているのは坂上田村麻呂である。
 この将軍社については以前、忍田政治氏の裏の道を三百メートルほど行った道の端に四尺四方の塚があり、平べったい石が積み重ねられて杉の木が生えていたという。そしてここを将軍前と呼んでいた。さきの「田村将軍入口」の石もこの道の入口にあったということである。ここの地名を八反田(はったんだ)という。
 嵐山町誌によると「菅谷村沿革」という書き物に次のように書いてあると。
 「坂上田村麻呂墳、村の中央八反田の山林にあり、八坪、三尺ばかりの墳の上に木製にして三尺四方の小宮あり、昔、利仁将軍此の地を経歴したるとき、此の墳に息(いこ)乏しと、想うに延暦中、巌殿山毒蛇退治の時にもあらんか将軍の霊を祭りて大宮権現と称す明治十年(1877)九月村社の池中に移す」
 さらに「村内に利仁将軍の霊を祀りし大宮大権現の社あるをもって将軍沢の名あり」とも記している。
 これらによるとまづ将軍沢の地名は藤原利仁将軍を祀ってあることによって起ったことになる。
忍田政治氏の語るところでは、昔坂上田村麻呂がこの地に来て湿地帯なので何というところだと聞いたが名前がないと答へると、それならば名前をつけてやらうと云って将軍沢の地名がつけられたのだと伝え聞いているという。
 将軍沢の地名は坂上田村麻呂の征夷大将軍の名から起ったのだと子供時代から聞いていた。
田村麻呂征夷大将軍になったのは延暦十六年(七九七年)桓武天皇の御代である。
 藤原利仁が鎮守府将軍に任ぜられたのは延喜十五年(九一五年)後醍醐天皇の御代である。
 二人の将軍の間には百年以上の歳月がたっている。そして「古墳は坂上田村麻呂の塚であるが、利仁将軍がこの塚に腰かけて休んだのでそこに利仁将軍の霊を祀ったのだという」と町誌は解説している。しかし将軍沢の人たちは誰一人として利仁将軍のことなど考えたこともないだろう。どうしてこういうことを「風土記」や「沿革」が書いたのか疑問である。
 また、将軍社はハシカに効くというので戦前は「大願成就」と書いた赤や白の旗が数多く奉納されたともいう。

千手院のさくら

千手院の桜|スキャン画像
(千手院のさくら)

 普門山千手院の本堂は赤い屋根で県道からも緑の中に見える。山ざくらと吉野ざくらの二本の老木が境内にある。庫裡は新築中だがほとんど出来上っていた。
 最近駐車場をつくるために整地したところ、いちょうの木の傍からカナ物の位牌が発掘された。それには「沢山頼国大居士」とあり、鎌倉時代頃のものだろうという。
 千手院は「応和二年(九六二年)慈恵大師の開基になり、村上天皇勅願の道場にして、天皇御自作の千手観世音を安置せりと伝える」と「嵐山探訪」には誌されている。
 また「嵐山町誌」は次のように述べている。
 村名の起原については伝説として「沿革」に「村上天皇の天暦三年(九四九年)に千手観音堂を造営され、武蔵国比企郡に土地を給与された。それでその土地を千手堂村と名づけ、寺を千手院といった。その後、文治建久の頃(一一八五〜九八年頃)に兵火にかかって、この建物は焼失した。そして更に数代を経て天文年間(一五三二〜五四年)に幻空伊芳という住職の時再建した。ところが又々享保元年(一七一六年、徳川吉宗の時代)に火災にあって烏有に帰した。然し観音像は無事であったという。又、菅谷の館に重忠がいた頃その家来がこの村に居住し、そこに塚が三つあって鎧塚といっている」と。
 これに対し「風土記稿」では千手院の解説で「千手観音を安置する当院は昔、わづかの堂なりしを幻空伊芳という僧を開山とす。」とあり、入間郡黒須村の蓮華院の観音堂に掛けてあるワニ口の銘に「武州比企郡千手堂  」とあるから「このワニ口は千手院のものであり、寛正の頃(一四六一年)はいまだ堂であったことがわかるといっている。
 そして「嵐山町誌」はワニ口の銘文からして千手堂が村の名前になったのであり、それは千手観音があったからだと結論している。とに角由緒のある古い寺の一つである。
 すぐ近くの森に春日神社がある。珍らしいかやぶきの屋根が古さを物語っている。みかげ石の鳥居の上にさくらの花が両側から枝を伸ばして咲いていた。森閑とした山中にうぐいすの声が時をり聞かれた。お宮の左右に掲げられた額の文字は風雨に打たれて見えなくなっている。
 花は石のきざはしに散っていた。

遠山道へのさくら

遠山道への桜|スキャン画像
(遠山道へのさくら)

 千手堂から遠山へ抜ける旧道の道端に高さ五十センチほどの道標があった。大正八年(1919)十二月に千手堂青年部の建てたものである。一面には「西五丁トンネルアリ大字遠山ヲ経テ小川町下里二至ル」と「東十丁大字菅谷ニ接シ松山小川間ノ県道ニ通ズ」と二行に書かれ他の一面には「東約二丁ニシテ左方大字平沢志賀ノ間道ヲ経テ七郷八和田村ニ至ル」と「南当大字ヲ経テ大字鎌形玉川村ニ至リ西平越生方面」とある。そして正面には「不知己分則言行多過(己の分を知らざればすなはち言行あやまち多し)」と刻まれてあった。道しるべに自らの身を修める言葉を書き記した当時の青年の心意気に思わず感動を覚えた。今ではこのねづみ色の道標に歩みを止める人は居ないであろう。
 道標の文字を書き写していると近所のおばさんが出てきて「寄ってお茶でも飲んでいきませんか」と言葉をかけてきた。時は正午、しかも暗い空からは雨がぽつんぽつんと降ってきたので遠慮した。田舎の人は親切だと思った。
 千手堂から遠山への道は道標の示すとおりトンネルをくぐる細い道だった。これを平沢から遠山へ通ずる道路として完成したのは昭和四十七年(1972)である。その折、この道の両側にさくらを植えた。道に沿って山ざくらの葉が赤褐色に芽ぶいている。
 遠山は盆地の中にある。盆地を囲む山々に点々とさくらの花の白く咲くのが見える。
 遠山への道がさくらの花でトンネルをつくるのはそんなに先のことではないだろう。

七郷小学校のさくら

七郷小学校の桜|スキャン画像
(七郷小学校のさくら)

 七郷小学校のさくらは校庭の土手にまとまって咲いていた。年数もかなりたっているのだらう。風が吹くと花吹雪となって散って行くのが美しかった。
 昭和四十四年(1969)にプールが出来て桜の木は校庭からは上の方しか見えなくなった。新校舎が四十九年(1974)に完成して七郷小学校は面目を一新した。さくらは歴史の移り変りをどのように眺めたことであらうか。
 七郷小学校の校地が此処に決定されるまでには長い年月が必要だった。明治五年(1872)に学制が頒布された翌六年(1873)、杉山学校が創立され、杉山の八宮神社の参道を上る途中に校舎を建てた。十二年(1879)に杉山学校を分離し、吉田学校を設置して坂本幸三郎氏宅の前方に校舎を建てた。明治十九年(1886)には両校を合併して越畑に昇進学校を設立した。二十二年(1889)の町村制実施により七郷尋常小学校と改名された。
 しかし二十七年(1894)になると再び分離して第一、第二七郷尋常小学校となってしまった。第一小学校は校舎を吉田に新築し、吉田、勝田、古里、越畑地区の児童を収容し、第二小学校は杉山の旧校舎に杉山、広野、太郎丸の児童を収容した。
 この二つの学校が再び合併することになるまでには位置の問題で十年余りの歳月が必要であった。
 明治四十二年(1909)、第一、第二七郷小学校を廃止して七郷尋常小学校を設置することが決まり、翌四十三年(1910)に現在の地に新校舎ができ上ったのである。しかし、これには通学道路をつくることが条件であった。村では甲乙丙の三線を考えた。甲線は古里から広野、太郎丸を経て菅谷に至るもの、乙線は越畑を横断する十三間道路、丙線は勝田から広野へぬけ、広野から杉山を通り中爪へ至る線である。時の村長田幡宗順氏は、県から補助金をもらうべく浦和へ泊りこみで嘆願した。
 その当時新校舎の運動場の周囲に桜を植えたというが今その桜はない。
 子供たちは無心にボールをけって遊んでいた。

越畑のさくら

越畑の桜|スキャン画像
(越畑のさくら)

 越畑で見事な花を咲かせていたのは久保寅太郎氏の庭の桜であった。かなりの年数を経た古木が枝を天に広げて咲き誇っていた。高台にあるこの桜は遠くからも望まれた。坂の登り口に二つの碑があった。一つは句碑で「寂光の桜 影なき鳥にゆれ 軒星」とある。軒星とは久保茂男氏の俳号である。昭和九年(1934)に分家して農業と表装を営んで四十年間此処に住んでいたが、高速道建設のために移転することになった。その記念にこの句碑を建てたと記してある。
 もう一つは歌碑で「人からは土竜(もぐら)村長と言はれつつ 我父は村の道を拓きし 茂男」とある。読売新聞の歌壇に投稿し土屋文明によって選ばれたものである。久保氏の父君は三源次と云い明治三十六年(1903)、三十歳で七郷村の第八代村長となり、その後も第十二代目の村長をしている。古里から菅谷に通ずる道路の建設を終世心の誇りとしたという。
円梅【白梅】の老木の下の句碑も桜の木の傍らの歌碑も春の光のこもれ日に寂然としていた。

金泉寺のさくら —— 越畑

金泉寺の桜|スキャン画像
(金泉寺のさくら)

 宝薬寺の桜も金泉寺の桜も十数年を経たものであらうか。静かに咲いている感じだ。宝薬寺の萱ぶきの屋根と松の木は古い時代を象徴しているが三本の桜は若い。
 金泉寺のさくらは濁った沼に白色の花びらを散らしていた。町指定の大いてふは芽ぶかんとしている。樹齢二百五十年。秋には銀杏が寺の庭を埋めるように散り敷く。
 薬師堂は神亀の頃(七二四年、奈良時代)の創立と伝えられる。かって西の山地にあったものを移したものと云はれるが、大ヤツと呼ばれる三ツ沼の奧に薬師堂があったと云はれている場所があるという。ここの薬師さまは安産と目の病い、しやく(癪、種々の病気によって胸部や腹部に強い痛みを感ずることをいう)の病いに効くと云はれている。したがって縁日には豆ローソクを何十本も立てて灯をともし、少してこれを消し、妊婦に持たせてやる。妊婦はこのローソクを枕元に立てて灯をともしておくと、安産できるとした。また目の病いの治った人は石臼を寄進したと云われ、今でも御参りに行く道に敷き石として列べられている。しやくの治った人はお福にひしゃくを奉納した。このため、昔は堂の周囲に何百というひしゃくがつり下げられていたという。それをある時、住職がみんな燃やしてしまったのだという。
 旧暦の九月十三夜の縁日には今では安産の他に養蚕の祈祷を行っている。これも時代の流れあらう。ここは郡下でも養蚕の盛んな地域である。
 薬師堂の本尊は薬師如来で行基の作と云はれる。行基は聖武天皇の所代、東大寺の建立や大仏の造営に協力し、大僧正に任ぜられた高僧である。
 ここにはこの他御前立ちと云はれる木彫りの仏像が数多く残されているが、誰も見たことはないしまた見てはいけないことになっているので年代も定かでない。
 また、格子型の天井には天女が布をひらひらさせながら飛んでいる絵が書かれている。誰がいつ頃書いたのかわからないが、昔この地方に天女が腰に布をまとって空から舞い下りてきた。村人は見たこともない天女を不思議に思って追いかけたので、天女は南の方へ飛び去ってしまった。県南にはこの天女の降りた地名があるという。天女のまとった機織りの布からオイハタの地名が起りそれがオッパタに変化したのだとも云われている。

宝薬寺の桜|スキャン画像
(宝薬寺のさくら)

 宝薬寺は金泉寺の隠居寺とも云われ、共に元和年間(一六一五年頃、徳川時代の初期で大坂夏の陣があり、豊臣氏は滅亡した)に僧南叟寿玄(広野、広正寺の三廿【世】とも云われる)によって創建されたものである。寿玄は寛永十九年(一六四二年)入寂している。
 宝薬寺の古めかしい堂宇は今日テレビ映画の舞台装置には恰好で時々ロケーションが行われているとのこと。いま無住なのが寂しい。
 八宮神社に奉納されるササラ獅子舞は夏の暑い日中を此処から出発したが、以前は中郷の正法院(?)と下郷の観音寺という二つの寺院があり、ここから一年交替で出したものだ。祭の日には餅をついたり赤飯を炊いたりするので越畑地区は二つの寺院に扶持(職務に対する報酬として主として米を支給すること)を与えていたという。今では宝薬寺と観音寺で一年交替の出発宿をつとめている。
 奈良時代から幾星霜、星移り人変り栄枯盛衰幾変転。老松ひとり何を思うや。花は今年も散りゆくものを。
 越畑に関する古い話はすべて古老の市川武市氏に聞いたものである。

手白神社のさくら —— 吉田

 老杉に映ずる古木の桜が枝を四方に拡げて花びらを散らしていた。神木の杉は二本あり、樹齢六百年という。町指定の天然記念物である。社殿のすぐ隣にある社務所兼集会所は改築中であった。その玄関の柱に飾られている彫り物だけは古びたもので、大工さんは「きずつけないよう注意しながら仕事をしています」と云った。社殿の彫刻はやはり町指定の文化財である。

手白神社の桜|スキャン画像
(手白神社のさくら)

 手白神社の起原について町誌は次のように述べている。宝永三年(一七〇六)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(一〇八〇年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ社木の樫の木に向って神気が立ち上り、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。というお告げがあった。」という。
 手白香姫が武蔵国まで来たのであらうか。そして吉田の地にとどまったのであらうか。全く疑わしい。史書によると継体天皇は手白髪命(たしらかのみこと)を皇后としたとある。手白香姫と手白髪命とは同一人物でなければならない。もとより伝説である。
 今では鏡浄呂池について吉田の人さえほとんど知らない。もっとも昔、神社の前の下に三坪か四坪の池があり、松の木と碑が建つていたというが、今では桑畑になってしまって何の面影もない。滄桑の変という言葉があるが世の変遷の甚だしきを思わざるを得ない。

勝田のさくら

勝田の桜|スキャン画像
(勝田のさくら)

 勝田にはこれと云ったさくらはないと思っていた。眼前の高手【高台】に桜の花を見た時、車を止めた。畑の道を上ってゆくと老木と若木のまじり合った桜が見事に咲いていた。広場がある。ゲートボールに使っているらしい昔運動場だったという。昭和三年の御大典記念に当時の青年たちが小高い山を切り開いて平らにし運動場をつくった。その時桜も植えたのだという。
 勝田を一望の下に見下ろせる高台の草むらに腰を下ろして、当時の青年たちの勤労の汗を思ひ。熱と意気を思った。今日、ゲートボールに興ずる老人たちは当時の青年たちなのであろうか。
 眼下に山ざくらの木が一本だけ大きく咲き誇っていた。墓地に植えられたものである。白みかげの墓石には「金沢医学博士田中義雄墓」とあった。三十歳にして世を去った薄幸の人のために植えられたものであらうか。

— 報道委員会会長 関根昭二 — 

『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
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