第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
花だより —— 桜に寄せて
春は花の季節である。花は桜である。桜が咲いて人々は初めて春らしい気分になれる。今年の桜は三月の終り頃から咲き初めたが、寒い日が続いたために四月の中旬まで咲き続けていた、昨年は七郷地区の桜を見て廻ったので今年は菅谷地区の桜を訪ねてみることにした、桜を見るには肌寒いような日であった、花見気分はやはりかげろうのもえる霞のたなびくうららかな日がよい、そういう日がなかった今年の春であった、今年の春は寒い春だった。
菅谷小学校の桜
ここの桜は見事である。古い小学校(現在の郵便局のある処)から移し植えたものである。何十年経ったかわからない花は年々歳々同じでも、人は年々違ってくる。去る人を送り来る人を迎えて花は今年も咲き且散って行く。薬師堂の桜 —— 川島
亭々たる松の巨木、朽ちなむとする桜、古めかしいお堂、地藏様、菜の花の黄を通して太郎丸の高台が霞の中に見える。俳句的風景である。聞かず薬師のお堂には穴の開いた石が数限りなくあった。ムクレンジュ*1の大木が黙然と立っている。 (絵は田幡紫雲氏)*1:ムクレンジュ…落葉高木のムクロジのこと。果皮はサポニンを含んでいてよく泡立つことから、洗濯や洗髪につかわれることもあったという。果実の核は羽根つきの球につかった。
嵐山ロッジの桜 —— 菅谷
ロッジは見晴らしのよい高台にある。重忠館跡の一角であるが、ここには昔、〝会館〟と云はれた建物があった、子供の頃その建物で勉強した覚えがある。その時の桜が、今も残って咲いていた、遠く連なる秩父の山波は今も変らぬ姿である。菅谷中学校の桜
中学校は歴史が新しいだけに桜もまだ若い、この学校の桜の木が小学校の桜ほどの老木になるにはまだ何年もかかることだろう。
その時この学校はどんな風に変っていることだろう。今は体育館だけが偉容を誇っている。農業研修センターの桜
どうだんの並木の道に桜が蔽(おお)ひかぶさるように咲いている。羽織袴に朴歯(ほおば)の下駄を履いた青年達が寮歌を歌いながらこの下蔭を逍遙(しょうよう)した。
腰に手拭をぶらさげた野良着姿の青年が道を究め身を修めるために日本農士学校に学んだ。今その面影はこの道にしかない。嵐山駅の桜
毎日電車で通勤する人は、ここの桜を眺めながらもう蕾が含らんできた。花が開き始めた、満開はいつ頃だろうなどと春への想いに胸をときめかすことであろう。そして今年も花見に行かずに花が散ってしまったなあという感慨に耽るのもこの桜である。重忠館跡の桜
〝国破れて山河あり、城春にして草木深し〟そういう廃墟の寂しさのただよう桜である。鎌倉武士たちは都幾川の流れを望みながら〝春高楼の花の宴〟に盃を廻したことであろう。星霜移り人変り花はただ散るのみであった。鎌形小学校の桜
この学校の桜も歳を重ねている。
近くの八幡神社、社の森と都幾川の清流と、由緒と伝統を物語る風景である。八幡橋だけが近代的な橋となって時代の変遷を思はせる。映画「石川啄木」のロケが行はれた学校に子供たちは無心に花びらを摘んでいた。武蔵嵐山の桜
嵐山の桜は川に花びらを散らして咲いていた、両岸の常盤木(ときわぎ)の中に桜の花だけが白く浮きたっていた、遠山への道路にそっても桜は咲いている。谷川橋に立って眺めると大平山(おおびらやま)の木々の新芽の萠えるような山裾に一際桜の花が映えていた。
つはものどもが夢を見し
小倉(おぐら)の城の石垣や
谷間しぶきの 槻川(つきがわ)に
蚕影(こかげ)のいわを 影うつす
さくら吹雪の 深山路に
京の都の名にちなむ
その名も むさし嵐山(あらしやま)
(中島運竝作)菅谷神社の桜
花は沼をめぐって咲いている。釣糸を垂れている人にも花びらが散る、沼の水は花びらを浮かべて時折輪を描く、子供たちが通る、鍬をかついだ農夫が通る、自転車に乗った人も通る、みんな桜を見上げて通って行く、近くの梨畑の花も真盛りである。法【宝】城寺の桜 —— 志賀
山間に沿って桜が咲いている。新しく建立された本堂に立つと昔の人がこの地を選んだ理由がうなづけるような気がする。寺としての雰囲気が漂っている。後に小高い山を背負って前は一望に開けている。み仏の安置されるに相応しい場所である。安養寺の桜 —— 大蔵
安養寺は嘗(かつ)て小説家の今東光が住職となった寺である。今氏は二回程来たけれど、どうしたわけかやめてしまって、今度は平泉の中尊寺という大な寺の貫主になった、桜は寺をめぐって咲いているが、近くの飼育所の建物があまりに立派なので寂しげである。明光寺の桜 —— 将軍沢
『菅谷村報道』167号 1966年(昭和41)4月30日
無住の寺に桜だけが花やかに咲いている。たった一本の桜である。
このお寺の庭で昔からささらが行はれたのだったが今では後を継ぐ者がなく絶えてしまった。お寺だけがしょんぼりとたった一人で桜の花を眺めて、遠い昔をかみしめているような寂しい風景である。