第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
菅谷村
村長退任の挨拶
青木義夫去る九月八日をもって私の村長としての任期も終りました。任期中村民の皆様から賜わりました御懇情に対し、報道を通じ心から厚く御礼申上げます。
『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日
顧みますれば私は昭和二十五年(1950)、旧七郷村議会議員に当選、昭和二十六年(1951)議長に選ばれ、更に昭和二十九年(1954)三月七郷村長に当選、その任期半ばに町村合併により退職、新村菅谷村誕生と共に参与・助役として昭和三十一年(1956)九月高崎村長の後を受けて二代目菅谷村長に就任、以来二期八年の間皆様の絶大な御支援御協力によりここに任期を完了することが出来ました。
過去十余年を振り返って見ますと町村合併の仕事は私の一生にとって最も困難な大きな事業でありました。
当時の七郷村に於ては大小五十数回の話し合いを重ね漸く新村が誕生した訳でありますが、当時を追憶すると誠に感慨無量のものがあり、村民皆様の御協力下さったようすが今も尚脳裏に深くきざみ込まれて忘れようとして忘れ得ない次第であります。
菅谷村長就任後の八ヶ年間は、合併後間もなく、合併のためのいろいろのひずみや傷跡も残り、又地方自治制度を始め、教育・財政・税制・消防・福祉等各般の制度の改廃等が次々に行われ、更に又急激なる経済成長等による国民生活の著しい向上等実に目まぐるしい八ヶ年でありました。
この間の思出も極めて多いのでありますが、昨秋の交通事故は私の心の中に大きな傷跡として残るものと信じます。
又仕事の面につきましても中学校の新築増築、役場庁舎の新築、自動車ポンプの購入、県道の舗装改修、バス開通、大蔵橋・谷川橋・精進橋の架橋、乳牛の貸付制度創設、市乳主産地形成事業、新農村建設事業、小団地開発事業、農業構造改善事業、工場誘致、ゴルフ場開設、水道経営、し尿処理場計画、明星福祉基金制度の創設、敬老年金制度の創設、国民健康保険の運営等々の事業も忘れ得ない思出の仕事でありました。
今ここに村長の職を去るに当り、静かに八ヶ年を振り返り、これらの事業遂行に当り、直接間接に御協力下さった皆様の御厚意に対し、感謝の気持で一ぱいで感慨胸に迫るものを感ずる次第であります。
本村が今日の発展を(昭和三十一年度の村予算に比し、昭和三十九年度は約五倍の一億円余に増加しています)見ましたことは村民皆様の御協力のお蔭でありますことは申すまでもありませんが、前村長高崎さんの霊が私及び本村に対し、お加護下さった賜であると存じ、高崎さんの霊に対し改めて心から感謝し、御冥福を祈ると共に今後も更に一層本村発展のため御守り下さるようお願する次第であります。
菅谷村は今後町制施行を始め幾多の事業が山積していますので村民多数の方々から尚一期勤め新村建設の仕上げをするようにとの有りがたい御声援御支援の御要望もありましたが、昨秋の交通事故に対する責任を痛感し、私の政治的良心が許しませんし、余り長く御厚意に甘えることは適当でなく、又躍進途上にある菅谷村のよりよい発展を期するためにも後進に道を譲ることがよいと信じ御声援下さった皆様の御厚意に逆って申訳ありませんが、私の心中御賢察の上御許し戴きたいと存じます。
私は未だ還暦に達せず私の人生はこれからであると存じますので、今後大いに社会の為郷土の為に奉仕せねば相済まないと存じています。今後は一村民として二十二年の教員生活と議員・村長十五年の人生体験に反省を加え之を生かして明るい村造りに御協力申上げ、皆様の御厚意に報いたい所存であります。
何とぞ旧に倍して御厚誼を賜わりますよう御願いいたします。
幸に後任村長として関根茂章氏が選ばれましたが、関根新村長は私の熊農の後輩であり、又埼玉県社会教育委員としても後輩であり、私の信頼して選任した教育委員で然も村長・教育委員長としての二人のつながりは特別のものがあると存じます。私の任期第一期は新村菅谷村が産声をあげた当時の言わば乳児期で、第二期は幼児期であったと存じます。関根新村長の若い情熱と高い教養とによって、今後少年期・青年期を健全に育成し、立派な菅谷村に仕上げて戴けると確信いたします。村民の皆様、私に寄せられたと同様、関根新村長に御協力下さるよう御願いいたします。
村長満期退任に当り、謹んで村民皆様に重ねて厚く御礼申上げると共に今後愈々御健勝御幸福でありますよう御祈りいたし、退任の御挨拶といたします。 (三九・九・九記す)