第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
菅谷村
村長選挙は9月6日に決定
自民党総裁選挙、埼玉県知事選挙に続く注目の本村村長選挙は9月6日と決定した。選挙管理委員会(会長岡村定吉氏)は7月12日に会議を開き村長選挙について協議した結果、8月30日告示、9月6日(日曜日)投票日とし即日開票することに決定した。従って誰が新しい村長に選ばれるかは同夜10時頃には判明するものと思はれる。
『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日
関根新村長出現
三八一五票で圧倒的勝利青木村長の任期満了による村長選挙は九月六日行なわれたが即日開票の結果、関根茂章氏が三、八一五票で青木高氏を約二千九百票引き離して圧倒的勝利を収め合併後三代目の村長に選ばれた。新人関根氏がこのような大差をもって前議長の青木氏を破った原因は私心を去って村政に当るという誠意が村民に共感を呼んだことと青年としての誠実さが買われたものである。関根氏は三十九才という若さであり今後の菅谷村の発展に如何なる政治的手腕を発揮するか各方面から非常な期待と注目を寄せられている。
各候補者の得票数
関根茂章 三、八一五票
青木 高 九三六票
無効 四五票
今度の村長選挙は新人関根茂章氏と政界のベテラン青木高氏の一騎打となった。関根候補は新人とは云いながら教育委員長をつとめてをり、九州帝大を卒業した学歴とその識見、人格はつとに村民の注目するところであり、非常な期待がかけられていた。然し家庭で農業をやっており果して村長に出馬するかどうか全く疑問であった。菅谷地区の議員と区長は数度にわたってかつぎ出しの会議を開いて懇請した結果、関根氏もついに腰を上げ八月五日にその決意を披瀝した。従って関根候補は菅谷地区の絶対の支持の上に選挙戦を進めることができ七郷地区に対してのみ運動の主力をそそぐことになった。
青木候補は七郷農協組合長の市川武市氏が七郷地区から押されたにもかかはらず立候補しないことになったのに乗じて市川氏を支持した勢力をそのまま青木支持に振り替へたような態勢をつくりあげた。従って青木候補は事務所を七郷農協の隣りに置くと共に責任者に井上清氏(青木氏議長の時、副議長をつとめた)をすえ、推薦者に市川武市、田畑周一、坂本幸三郎、藤田正作、島田忠治、小林辰見氏らの村議経験者から各区長、農協支部長、養蚕支部長らに至る七郷地区全有力者を網羅したような陣容となった。
八月三十日告示と同時に関根候補は関根昭二氏宅事務所を開き責任者瀬山修治氏の指揮の下に議員、区長、七郷地区の協力者らを混えて一せいに選挙運動を展開したが青木候補は供託書類が整はないために八月三十日には選挙運動ができなかった。関根候補は七郷地区に顔が売れていないため全勢力を傾注して七郷地区民への浸透作戦を行いあらゆる会合に出てその所信を訴えた関根候補はその政策として愛と道義の行政、生産を高める行政、これらを実践するための人づくりの行政を展開することを主張して若さと体力にものを云はせ朝早くから夜晩くまでくまなく走り廻った。
青木候補は立候補の当初から暴力議会、暴力署名を旗じるしに関根候補を決定するまでの議会のとった立場を非難すると共に関根候補に対する署名運動が非民主的であるとして激しく攻撃した。
このため今度の選挙は政策なき争いとなり、関根候補だけが村政担当には私心を去って当りたいという決意を持って村民に呼びかけると共に青年には希望を壮年には働くよろこびを老人には心の安らぎをという理想郷の実現に努力することを訴えたため、七郷地区においても青年、婦人を主力として次第に関根候補は支持を得、最終段階には七郷地区にも関根支持ムードが圧倒的となるに至った。政界のベテランと云はれ議員経験も長く議長もつとめた青木候補が次第に先細りに人気がしぼんで行ったのは何と云ってもその人柄にあると云えよう。関根候補の人気上昇は新人としての魅力と人格の高さによるものであろう。略歴
関根村長の略歴は次の通り
『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日
熊谷農学校を卒業後、三重高等農林(現三重大学)を経て九州の帝国大学に入学、農業土木科を専攻して卒業、直ちに帰郷して自家の農業経営に従事し今日にいたる。
昭和二十七年より二十八年にかけてアメリカに渡り、農業実習生(第一回)として農業実習、農業経営、農村調査などを行う。この間アメリカの開拓魂に触れて共感を覚える。
二十九年、シンガポールで開かれた世界の青年会議に出席し、世界の青年代表と教育、文化、経済等の振興と発展について研究と討論をかさねた。なお、東南アジア諸国を遍歴し、燃え上る民族運動の息吹を体感した。
三十年、東京で開かれたアジア農村再建会議に出席しアジア農村の再建の方途を研究した。
三十一年より三十八年まで県農村振興顧問として県内農村の振興計画の作成の助言と指導に当った。
三十四年より県社会教育委員、三十七年より県農政審議会委員、三十三年より村教育委員、三十六年より教育委員長として村教育行政にあたり、七中技術科教室と七小給食室の建設委員長となり菅中体育館建設委員長であった。
他に県立興農研修所及び菅谷農高講師として農村青年の教育にあたった。
家庭は乳牛十頭、田畑二町を経営し、造林事業にも注力している。
村長選挙投票率
投票所 有権者数 投票者 投票率(%) (前回)
『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日
第一 1,579 1,369 86.70 90.45(菅・川・平)
第二 497 455 91.54 91.91(志賀)
第三 294 285 96.93 86.85(千・遠)
第四 634 546 86.11 82.19(鎌形)
第五 527 479 91.58 92.80(大・根・将)
第六 633 531 83.88 90.93(太・杉・広・勝)
第七 782 621 79.41 88.00(吉・越・勝)
第八 601 510 84.85 89.04(古・吉)
計 5,543 4,796 86.52 89.12
註、前回とは31年(1956)9月9日の選挙をいう。