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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

菅谷村

時の人

村長になった青木義夫氏

 開票の歳には三百人もの人が彼の家へ詰めかけてゐたというから、彼の人気はたいしたものである。当選の報を聞いた時にも、彼は普段と少しも変わらなかったという。当落は、全然考えてゐなかったと、彼自身が語った。
 過去の経歴はとも角として浪人生活の彼が現議長や現議員の大物級を向うに廻して当選したのは、彼の若さと新人に対する期待とによる人気の故であろう。彼は人当たりがいいので、一般的なうけはいい、その反面にシンが弱く頼りないという評もある。彼は社会教育家的タイプであり、政治家として手腕は未知数である
 二十五年(1950)に七郷村の議員となり、翌年(1951)議長に選ばれ、二十九年(1954)無投票で村長になった。三十年(1955)の四月に合併して助役となったが、村長在職期間は僅か一年であり、その功罪を論ずるにはあまりにも短かすぎる。高崎村政の業績を継いでどこまでこれを発展させるか、「明るい家庭、明るい社会」という社会教育的スローガンが現実の村政の上に如何なる具体的政策となって実行されてゆくか、村民はこの新人を注視してゐる。
 彼は熊農を卒業すると青少年指導ということに志をたてゝ上京、府立の青年師範学校(現学芸大学)に入った。卒業するや府下の東村山町の青年学校兼小学校の教師となり、約十六年この地に在職した。学校の校長が社会教育の大家であったところから、影響と指導を受けその道に専心するようになた。この間、九州から北海道まで全国の優良市町村を視察したが、婦人の協力のない村は駄目だということを悟った。彼が婦人団体に力を入れてきたのはこういう自身の経験によるものと思はれる。
 又、自転車の事故防止という考へから出発して、自転車体育、レクリエーションから国防訓練にまで発展して「自転車の青木」という名を売った。「自転車訓練指導草案」「自転車訓練精義」などの著書さへある。 
 昭和十四年(1939)三十五才で東京市の大泉青年学校長兼大泉実践女学校長になった。三十五才の若さで奏任待遇でとして文部省から辞令をもらったのだから出世の早い方である。この学校で専修科を設け母親学級をというものをつくった。これは生徒の母親たちを集めて被服、料理茶、活花など特別に教へていたわけである。彼はこゝでも婦人を指導すること忘れなかったのである。
 二十年(1945)に東京都から教職員としては最高の栄誉である表彰年金を受けたが、終戦になると両親の膝下で孝養を尽くしたいとの念が起こり職を辞して帰郷した。
 戦後の混乱状態を見るにしのびず社会教育の必要を痛感して一青少年団や婦人団体の結成に努力した。
 二十五年(1950)には比企郡代表として埼玉県の社会教育委員となった。彼の歩んできた道は社会教育の一語に尽きる。彼の信念も亦これである。政治は社会教育と異なる。過半数の野党議員を有する議会と村民の絶対の支持ありと自信する間に立って如何なる政治手腕を発揮するか。今後の一年間が大きな山であらう。

『菅谷報道』74号「時の人」1956年(昭和31)9月20日
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