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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

菅谷村

時の人

助役になった小林博治氏

 彼が収入役になって三年後、村の批評家が「理知的な彼の瞳、インテリと云に相応しい彼のタイプが何かしら村民に冷たく感じる」と評したが、それから六年後の今でも猶一般的にそう見られている。彼はお世辞の云へない性質であり、理知的に物を考える方である。だから世間的な人間気はそれ程ないが事務的手腕は認められている。
 高崎村長の下で六年間助役をしてきた功績と能力を高く買はれて、今度また助役に選任された。助役は村長のような政治家ではないので、特に自己の抱負を実現させるというようなことはしていないが、二十五年(1950)に報道委員会を発足せしめてその初代会長に選ばれた。「報道」をして今日の如き姿にまで発展せしめることができたのは、彼の熱意と努力によると云っても過言ではない。
 彼は小学校を卒業するとすぐ上京して青山師範普通科に入学し、東京高師文理大と教員専門のコースを進んだ。文理大では日本史を専攻し、特に徳川時代の社会経済を研究して卒業論文には「入会地の研究」という地味な勉強をしたが、戦時中には文部省の国民精神文化研究所の一員として迎へられ、国体明徴運動に参加し日本精神を大いに鼓吹した。
 この時、橋田文相の弟子杉靖三郎の影響で道元禅師の研究もした。彼は山形の新荘女学校を振り出しにして都立第十一中学校で終戦を迎へた。終戦は彼の歴史教育を根本から覆してしまった。彼の天皇中心主義の考え方は否定されてしまった。戦いの終りは同時に彼の歴史教育の終りであった。良心的な彼は教育者としての責任を感じ恩給を目の前にして失意の心を抱いて故郷に帰ってきた。先祖伝来の畑を耕す百姓となったがこの浪人中、図らずも東洋精神の唱道者安岡正篤と相知るに至った。彼の日本精神的教養は忽ちにしてこの安岡氏の東洋倫理観と一致して深い影響を受けた。彼の物の考え方が東洋的なのは彼自身の歩んだ人生コースによる。二十二年(1947)に収入役となり、二十六年(1951)兼任したが政治的方面は全くの素人である。
 然し助役としては一流の人物であり、高崎村政の強力な推進者である。村長の信任も厚いので仕事もやり易く、働き甲斐もあろう。教育委員会が出来ると同時に教育長になり、川越農高菅谷分校の設置、中小学校長の大移動など行ってその面目を発揮した。彼にとって教育行政はお手のものであろう。教育的理想をいかに政治に反映させるかゞ彼に負わされた課題である。
 趣味はこれと云ってないが酒が好きで気の合った連中と飲んで語るのが楽しみというところ。酔へば若い者に負けない程の議論を吐く。
 明治四十年(1907)生、四十九才、鎌形出身、教育長

(S) 

『菅谷村報道』72号「時の人」1956年(昭和31)7月20日
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