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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

菅谷村

助役選任を巡り菅谷村議会紛糾

1955年(昭和30)4月15日の七郷村と菅谷村の合併後、定員二名の助役には、6月30日より青木義夫(前七郷村長)、小林博治(前菅谷村代理助役)両氏が就任しましたが、昭和31年(1956)第1回定例村議会(3月28日〜30日)最終日に「菅谷村助役定数条例の一部を改正して二人を一人にする件」が可決され、翌日、二人は辞表を提出、高崎達蔵村長はこれを受理しました。

後任助役は青木氏か、小林氏か、議員間に青木支持、小林支持の対立があり助役選任問題で議会はその後、三カ月にわたり紛糾しました。

『嵐山町議会史』(1987年3月発行)には次の記述があります。

昭和31年第2回定例村議会(6月20日)
……助役選任については、代表者会議により選定し、決定に対し議会は、無条件に同意することに落着いた。……(14頁)

昭和31年第5回臨時村議会(7月3日)
四月以来、三ヶ月も議論した助役の選任について、七月三日臨時村議会を招集した。
村長が菅谷地区から出ている以上、助役は七郷地区から出すべきだと議会を二分される議論が展開されたが、村長の強くおした小林博治氏が満場一致で同意を得た。……(15頁)

『嵐山町議会史』1987年3月

又、1956年(昭和31)4月から7月に発行された『菅谷村報道』には、次の記事があります。

助役一人と決定
  満場一致の同意を 付帯決議

 三月三十日午後の村議会は国保予算成立後、固定資産評価審査委員を選任することに同意を求める件(議案第八号)を可決、田中稔氏を委員とすることに同意した。次いで、村長、助役及び収入役の諸給与について(議案第九号)、菅谷村歳計現金預入規定(議案第十号)、村議会の権限委任に関する件(議案第十一号)、七郷中学校新築事業費(特別会計)に充当するため百五十万円の借入金をする件(議案第十二号)、菅谷村の助役定数条例の一部を改正して二人を一人にする件(議案第五号)を上程、それぞれ可決した。助役定数条例改正の際、大塚議員【大塚禎助議員】は「本案については昨年二回にわたって協議会を開いてあるので村長さんは十分考へて居られることと思う。今月限りで二名の助役に辞表を提出してもらうことでスムースに行くのではないかと考へる。一名の選任には村長が十分熟慮せられて満場一致の承認が得られるよう検討していただき又努力していただきたいと強く要望する」と発言した。栗原議長【栗原侃一議長】はこの大塚案を採択して議会に図るに賛成の声あり、依ってこれを議会の決議とすることを満場一致で決定した。村長は特に発言を求め、「助役定数の問題については二人に辞表を提出させて村長が検討、熟慮して議会の同意を得るようにしたいと思う。その際は私の推薦した助役を満場一致で御同意を得たい」旨述べた後、予算成立に関する謝辞があり、全員拍手のうちに午後四時二十三分、三日間に亘る予算村会は閉会した。

『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日

助役問題難航

 助役定数条例の改正に伴い、助役は四月一日より一人と決定されたため、小林、青木の両助役は三月三十一日付を以て辞表を提出、村長はこれを受理した。然し、後任助役を誰れにするかをめぐって議員間に意見の対立があるため、早急にこれを解決することは極めて困難と見られている。即ち村長が旧菅谷より出ている以上、助役は七郷より出すべしという意見と、村長が適任と認めた人物に同意すべしとする意見、などあるが、目下、有力候補と見られてゐる小林、青木の両氏のいづれかを再任するにしても、議会で満場一致の同意を得られることは至難の状勢なので、当分の間見送りの模様である。。

『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日

四十一万の追加更正
  助役選任に代表委員を決定

 六月定例村議会は二十日午前開会、追加更正予算四十一万を可決した。これは主として凍霜害桑園に対して災害対策費として四十万三千円支出したので予算措置を講じたことと、役場吏員の九名退職による職員給の減額、参議院、知事などの選挙費用の増加によるものである。午後からは注目の助役選任の件を上場したが、村長の提案理由の説明が行はれないうちに、提出の時期でないから更に話合うべしとの発言が出たため、提出せよとの意見と鋭く対立したが結局、村長、議長、副議長と、更に旧菅谷、七郷両地区より二名づつの議員を出して、これら七名の代表委員によって助役を選定し、その決定に対しては議会が無条件に同意することに落着いた。

定例村会本会議
 午前十時二十分開会(坂本【坂本幸三郎】、大野【大野幸次郎】、青木【青木高】議員遅刻)
 議案第一号追加更正予算案を上程、村長の予算案説明の後、質疑に入ったが特に問題となる点もなかったので、極めてのんびりと審議、教育委員が教育費について質問するという珍風景もあったり、七郷小学校の便所改築のことから中学校の便所設計が悪かったということで座談会のような発言となったり、勤勉手当の退職者減額分を現吏員に支給せよと主張して村長を有難がらせたりして、この追加更正予算を可決確定、午後十二時十分昼食のため休憩した。
 午後は一時から再開の予定であったが、問題の助役選任に関する議案の提出が行はれるので【栗原侃一】議長は【高崎達蔵】村長、引き続いて市川議員【市川武市議員】と何事か相談していたため、約三十五分遅れて再開、議長は第二号議案、助役選任につき同意を求める件を上場する旨を告げるや、直ちに坂本議員【坂本幸三郎議員】は発言を求め「まだ提出の時期に達していないと思う、協議会で話し合ってはどうかと思う」とこの議案を審議することに強く反対したが、中島【中島勝哉】、高橋【高橋亥一】両議員からは「村長の指名を望む」ことを求めたため両者の意見が対立、山田議員【山田巌議員】、大野議員、内田議員【内田幾喜議員】、小林議員【小林文吉議員】、市川議員などはそれぞれ更に話し合うべしと述べて坂本議員の発言を支持、中島議員、高橋議員、金井議員【金井倉次郎議員】、田畑議員【田畑周一議員】、青木議員、森田議員【森田与資議員】、福島議員【福島愛作議員】は村長指名の人物に同意すべしと主張、両派の意見に対して村長は、「私の信ずる人をやったら満場一致の同意は困難であると思う。同意という意味は解っているようで解らない言葉である。表決によって決することは立法精神からみてよくない。議会の方で満場一致の人を見つけてもらへば結構なことである」と発言、大塚議員【大塚禎助議員】から「村長に選任権があるので、村長が最適任者と認めた人を出されたらこれに同意すべきだと思う。選任が延びたのは村長と議員の責任である。早く助役を決定して、村民を安心さすべきである。力で押しまくるのはいい方法ではない。話し合いで円満に解決したい。この問題を進展させる一つの方法として村長から提案するのを一寸まってもらって協議会に移るか、或は村長に出してもらって話し合うかどうか、議長に考へてもらいたい」と発言があり、二時四十五分一旦休憩、議場内外で議員間の話し合いが行はれた結果、四時五分続開、代表委員をつくることに意見が一致、中島議員案により、大野議員、大塚議員、高橋議員、坂本議員が多数で選出された。この四議員に高崎村長、栗原議長、山下副議長【山下欽治副議長】を加えて七人の代表者会議によって助役を選定し、議会はこれに無条件で満場一致の同意を与へることに決定した。このため第二号議案は審議に至らず廃案となった。従って高崎村長は日を改めて臨時議会を招集、代表者会議の結果に基いて再度助役選任案を提出しなければならなくなった。この本会議中中座して別室で、田畑、大野、坂本、山下の各議員が協議し、議長を呼びに来たため、四時三十三分休憩、十分の後再開、四時五十分閉会した。
 註 地方自治法第百六十二条 副知事及び助役は普通地方公共団体の長が議会の同意を得てこれを選任する。

『菅谷村報道』71号 1956年(昭和31)6月20日

助役問題解決さる
  小林博治氏に 議会満場一致の同意を

 四月以来欠員であった助役の後任について三カ月間ももみ続けた村議会は七月三日の臨時村議会において、高崎村長が推薦した小林博治氏に満場一致の同意を与へた。この日はすでに話合いができていた関係もあって、村長が提案理由の説明の終りで、「私は私の信ずる人、小林博治氏を責任を以って推薦したい」と一段と声を大きくして述べた時、静粛そのものであった。議場はほっとした空気が流れたようであった。議会はこれに対して全員異議なく認めたので、助役はここに小林博治氏と決定した。村長は特に発言を求めて謝辞を述べた。
 これによって、高崎村長は自己の思う助役を選任することができたので、村政の運営は一段とやり易くなるであろう。

 六月二十日に開かれた定例村会において村長は助役選出の議案を提案したが、説明に至らないまま廃案となり、これと同時に議員間の話合いにより、代表委員四人(大野、高橋、坂本、大塚各議員)を選定してこれに高崎村長、栗原議長、山下副議長を加えた七人によって助役問題を解決するよう、議会は責任を負はせた。この七人の決定に対して議会は異議なく承認することを決議したので、これら七人の最高首脳達は七月三日臨時村議会の開会に先立つ前に協議して助役問題に対する結論を得た。この協議の内容について栗原議長は本会議の休憩中、議員にこれを報告したが、それは次のようなものである。

助役を二年交代制に 栗原議長報告
 大野、大塚、坂本、高橋の各議員と村長、副議長、それに私の七人で今日の午前中役場で審議した。その結果、助役の任期四年を菅谷地区、七郷地区で二年づつ交互に出し合ってやってゆくことに話し合いができた。
 当初の助役を誰にするかは村長の推薦権により村長に一任することは申合せ事項として当事者に一通づつ書類として持ってもらう。この場合、後にやる助役はどうするか、という話がでて、本人の希望により、書記が不足しているので書記として最高の給料を出して使ってもらう。これは村長に対する要望である。

 この議長報告に対して田畑議員より「そのような取り決めは村長の推薦権を侵害したことになる」として反対の意見が強く述べられると共に、前助役青木氏を書記として最高級で遇することに強い不満の意を訴へた。然し栗原議長は「これは単なる要望事項にすぎない」としてとりあわなかったが、「助役のことで議会が二つに対立したことはよくなかった」と遺憾の意を表はした。
 この助役選任の問題については昨年十月の合併後初の選挙によって選出された当時、すでに一人制にする案があったが、合併後半年を経過していること、予算措置が講じてあることなどの理由によって、本年三月まで一応延期されることになった。
 然し高崎村長としては当時、青木助役が三月になれば自然退職するものとの確信があったため、小林助役が引き続き居据わることになるものと思われたので、極めて楽観していたが、本年三月助役定数条例の改正により助役一人制となってから、青木助役に留任の意向があることが明かになり、高崎村長としても小林氏を助役にする考へであったため当惑した。更に一部議員が青木氏を助役にする運動を始めたので、これに反対する議員は小林氏を助役にしようとこれまた運動を展開、ここに議会は真二つに分れて対立することになった。この中に在って比較的中立の立場にあったのは田畑、大塚、市川らの議員であったが、これとていざ票決となると白紙投票を投ずるかどうか疑問であった。青木支持派は村長が菅谷地区から出ている以上、助役は七郷地区より出すべしと主張したが、小林支持派は地域にとらわれることなく有能な人材を出すべしと反論し、田畑議員は「村長の推薦権を尊重して、村長の推薦する人物が特別な悪い人間でない限り、議会は同意すべきである」との立場をとった。これらの議論と共に運動も活発を極め、両派の会合、個人訪問などにからまる噂、遂に議会における票決の際の票を気にしだした。そうしていづれも吾党有利なりと呼号した。これら議員達の猛運動をよそに一般村民は極めて冷静でさ程の関心を示していなかったが、六月になって七郷地区の区長が連名して要求書を村長に提出したことから、菅谷地区区長も会合して、「助役を早急に決定すべきこと、村長の推薦する助役を無条件で支持する」などのことを決議した。これらの状勢からして村長も議会に助役の件を提案しなければならないと考へていたが、議会勢力は依然として両派対立し、妥協の形勢は見られず、この間に立って議長は斡旋の労をとることに積極的でなかったため、村長も提案の時期を決しかねていた。然し徒らに事態を延引させることは役場内の事務停滞と対外的関係もあり、六月二十日の村議会に初めて議案として提出したものである。

『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日
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