第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
旧菅谷村・七郷村
菅谷の麦、馬鈴薯供出好調
比企郡菅谷村では大小麦も馬鈴薯も気候その他に災(わざわい)されて相当量の減収にも拘らず農業会の声に応じて本月中には大小麦の供出完了の見込もつき、馬鈴薯の如きは本月分お米の代替としての供出に遙か割当量を突破して供出するといふ好成績を挙げてゐる。
『埼玉新聞』1945年(昭和20)7月23日
遺骨を胸に弔合戦 菅谷の金井中尉部下から戦死報
比企郡菅谷村大字大蔵出身陸軍中尉金井義雄君は中隊長として南支方面に於て幾多の戦闘に中隊を指揮して勇戦中去る三月つひに壮烈な戦士を遂げられた旨部下からこの程家庭に通信があった。当の部下は中隊長の遺骨を胸に約一ヶ月弔ひ合戦をした旨が記してあった。家庭には夫人たけ子さん(三三)、母せいさん(六三)の外、長男佐中君は松中二年に在学、長女みよ子さん(一一)は国民校に外一女がある。
『埼玉新聞』1945年(昭和20)8月7日
比企の供米成績
比企郡下各町村の供米成績は農民の理解により逐次上昇しつつあるが前年度末における各町村の成績は平村の完納を始として次の通り。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)1月10日
平(百%)玉川(72)竹沢(69.5)大河(62.4)唐子(59.9)七郷(59.2)宮前(57.7)八條(57.3)東吉見(52.4)松山(50.0)八和田(49.2)南吉見(48.7)高坂(43.8)北吉見(42.4)伊草(42.9)三保野(41.2)福田(40.9)出丸(40.3)明覚(40.1)西吉見(40.0)菅谷(35.5)中山(31.0)小川(29.8)亀井(23.3)今宿(22.1)大岡(20.5)小見野(17.8)
◇比企文化会発会式
仝郡下各町村に支部を設けて新発足した比企文化会は十日午後一時から松山町松山神社社務所で役員会を開催、十三日午後一時松山箭弓記念館で発会式を挙行準備打合せを行ふが当日は式後室伏高信氏の講演、引続き会員の雄弁大会を行ふ。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)1月10日
村政公吏粛正へ 七郷青年団員起つ
比企郡七郷村男女青年は下からもり上る青年団を去る十五日結成し団長に市川紀元君を、副団長に千野久雄君を推薦して発足した。団員は男女合せて六百名を網羅し、新生日本の建設を目指して自己の修養練磨と、手近の明朗村建設に着目、従来稍(やや)もすれば高圧的に村民に接した不浄公吏の退陣、粛正から第一歩を踏み出す。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)1月26日
行き過ぎた文化運動
比企郡下では松山町を中心に付近隣村にまで文化運動の興隆を見せ大事の食糧増産の勤労態勢が崩れかけてゐる。日常の勤労もそこそこに薄暮から夜更まで一定箇所に青年男女さては学童までが押しかけて郷土の芸術とばかり歌舞音曲に踊り狂ってゐる傾向はゆき過ぎだと心ある人々をひんしゅくさせてゐる。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)1月30日
鬼鎮社節分
『福は内福は内悪魔外』と変った呼称で節分豆撒きを行なふ比企郡菅谷村川島鬼鎮神社の節分祭は、【不明】二千五百名が参集して盛大に【不明】当日午後二時と八時の二回に亘って散豆式が行はれるが、年男には親米博愛党総裁小川万三氏が参列する。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)1月30日
農村の伝統を尊べ 大和町新倉地方有志
政府が金納制にしたため、地主は還元米を貰ふようになり、これを嫌ふ地主は小作地の返還を迫り、かへって小作人に苦労をかける恐れがある。かうした条件の下では供米意欲は起るまい。しかも農民には永年の伝統や人情もからんでゐるから法的処置のために、地主も小作も不満足を感じ政府に協力出来なくなるのは当然である。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)2月11日
◇菅谷民生会誕生
比企郡菅谷村大字菅谷根岸丑太郎外二十二氏が発起人となって菅谷村民生会を組織すべく七日午後一時から菅谷農業会内で結成式を挙げ総則、趣旨、綱領を決定。引続き座談会を開催して五時散会した。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)2月11日
松山で農組連合結成
松山町を中心として付近町村に結成された農民組合の連合結成式は一日午後一時から松山町箭弓神社記念館で開催されるが、主宰は野本農民組合長金井塚勇一氏で高坂、菅谷、宮前、福田、大岡、唐子の各農民組合員多数が参集して規約、綱領等を決議し共同戦線を張る。当日社会党県支部からも幹部が出席して指導、講演がある。
『埼玉新聞』1946年(昭和21)4月29日