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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

旧菅谷村・七郷村

菅谷村大字川島の誕生

 鬼鎮神社(きぢんじんじゃ)のある嵐山町川島(かわしま)の地名が菅谷村志賀元広野(もとひろの)とされた時代があった。
 大日本帝国憲法の制定と国会開設を目前にして、富国強兵と中央集権的な地方行政機構づくりの一環として全国的に推進されたのが「明治の大合併」である。嵐山町域では、1889年(明治22)4月、菅谷村(すがやむら)、七郷村(ななさとむら)が設置され、合併前の旧村は大字(おおあざ)となった。この時、旧広野村の飛地(とびち)であった川島は地を接する菅谷村大字志賀(しか)に編入され、その地名は消滅した。
 地名の呼称には歴史的背景があり、それを軽々しく変更、廃止することは、長年、その地に暮らしてきた住民の自尊心が許さない。川島の人々は、同年八月、森田浦蔵、島楓助、権田恵助、小川喜六、田幡馬太郎、権田縫太郎の六名を惣代人として、川島の地名の復活と大字設置を願い出る。しかし、この訴えは、1891年(明治24)6月、「明治二十二年八月三十一日付元広野村飛地川島旧称存立願ノ件詮議ニ及ヒ難シ」と退けられた。

「本願ノ要趣ハ町村制施行ノ際元広野村飛地ヲ元志賀村ニ編入セラレ大字志賀ト相成候ニ付爾来郵便電信其他百般ノ事不便少ナカラス而シテ其飛地ノ部分ハ往古川島ト称セシコト歴然タレハ旧飛地ノ大字ヲ川島ト改称セシ事ヲ求ムルニアリ然レトモ大字川島ノ称呼ハ飛地組替処分ノ以前ニ於テ已ニ存在セス其地ハ即広野村ノ一部タリシヲ以テ川島ハ其地固有ノ名称ト謂フ能ハス且新村造成後茲ニ年アルヲ以テ最早一般ニ普及シ今ニシテ之ヲ改称セハ却テ混雑ヲ招クノ上アルニ於テオヤ  改称ノ必要ナシト考究セル所以ナリ」

 川島は、江戸時代に広野村と領主が同じだったので、支配の都合上、広野村の飛地川島とされたのであが、明治の地租改正時にも広野村の飛地扱いで、広野1470番〜2265番の地番と家番がふられた。
 町村制施行時に、川島が志賀に編入された時、地番・家番の数字はそのままで、広野だけ志賀と書き換えられた。ところが、志賀にはすでに志賀1番〜1874番の地番と家番がある。大字志賀1470番〜1874番の地番は、川島の地番と重複することになり、川島の島浮ウんと志賀の吉野さんの家番は共に志賀12番となった。
 そこで、戸籍簿、地租名寄(なよせ)帳、土地台帳等の川島分には、大字志賀ではあるがその下に元広野(もとひろの)を書き加えて「大字志賀元広野」と記載し、志賀と区別することにした。また、菅谷村の区制施行時には、第一区菅谷、第二区志賀元広野、第三区志賀、……として区長を置き、志賀元広野を行政組織の中に位置づけ、この問題の解消をはかった。
 しかし、川島の地名は消えることなく、通称として使われ続けた。さらに、鬼鎮神社は、度(たび)重なる戦争を通して武神(ぶしん)としての信仰が広まり、「川島の鬼鎮様」として、県外からの参詣(さんけい)者も集める著名な神社となった。
 1940年(昭和15)、紀元2600年を記念して、大字川島増設が菅谷村会で決議され、翌年9月15日、大字川島が誕生し、川島の地名が復活した。ここに、川島住民の50年来の熱望がようやく実現したのである。

『嵐山町広報』147号「博物誌だより109」2003年(平成15)8月1日 から作成

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