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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

旧菅谷村・七郷村

七郷村の村民大会

 1929年(昭和4)10月、アメリカの株価大暴落に端を発した世界大恐慌(きょうこう)は日本にも波及し、1930年〜1931年は企業の休業や倒産が相継ぎ、都市には失業者があふれていた。当時、繭(まゆ)から作られる生糸(きいと)はその生産量の八割が輸出され、主としてアメリカの消費と結びついていた。生糸輸出の減退による繭価の暴落に加え、1930年の稲作は大豊作で米価も急落、加えて都市の失業者の帰郷により農村の困窮(こんきゅう)はさらに深まり、各地で様々な形の社会運動が繰り広げられる状況となった。

 1930年(昭和5)7月20日、七郷小学校に於いて村民大会が開かれた。代表者は古里の安藤伊重郎他13名、呼びかけに応じて集まった村民は500余名に達した。いくら働いても借金がかさむばかりの村民にとって、村の財政支出を削減して減税を行い、村民の負担を軽くすることは切実な要求だった。村民達の怒号(どごう)が乱れ飛ぶ中、12項目の大会決議がなされた。 

一、村吏員(りいん)ノ俸給半減ノ事
一、村書記一名減員ノ事
一、村吏員ノ執務時間確守(かくしゅ)ノ事
一、現村長報酬(ほうしゅう)全額村ニ寄付セシムル事
一、学校職員ノ俸給(ほうきゅう)四割削減の事
一、村会計ハ一般公開制度実施ノ事
一、役場ノ小使常使(じょうづかい)ハ一名ニシテ兼務の事
一、徴税(ちょうぜい)ハ時節柄充分理解ヲ以テナス事
 (以下略)

 翌日、村長市川藤三郎は辞職、後任村長の件で村議会が再三開かれ、10月にいたってようやく、栗原侃一(くりはらかんいち)が就任を受諾した。彼は村長代理助役として村民大会決議の解決に尽力、「村会議員は費用弁償の全部、村長・助役は報酬手当の半額、収入役以下有給吏員は二割乃至三割を減俸、使丁(してい)一名の減員、補助金の半減、費用弁償は旅費を減額し、一千七百二十円を減税に充当する」ことを9月、各方面に通知している。

 しかし翌年5月、財政難に苦しみ滞納解消が思うにまかせぬことに業(ごう)を煮やした村当局が村長署名入の「滞納租税整理ニ関スル厳重ナル注意書」を村民に回覧し、滞納者宅に村吏員を派遣して納税を督促するに及んで、村民の憤りは再燃した。吉田では鞠子稔(まりこみのる)他73名が、「滞納整理猶予及救済陳情書」を提出した。曰(いわ)く「実際金ガアッテ誰ガ納メズニイラレルモノカ、今我々ニハ納メル金ガナイ(中略)不景気ハ昨年ヨリズットヒドクナッテ来テイル(中略)景気ガナオレバ立派ニ納メル事ヲ茲(ここ)ニ誓ヒマス、ソレデモ猶予(ゆうよ)デキナケレバドウトデモシテ下サイ、我々ハ全クステバチダ(中略)村当局ノ誠実ナル処置ヲ望ム」と。これは村民の切実な叫びであった。

『東京日々新聞』埼玉版|スキャン画像
『東京日々新聞』埼玉版(昭和5年7月22日)

『嵐山町広報』158号「博物誌だより120」2004年(平成16)7月1日 から作成

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