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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第11節:社会科副読本

『わたくしたちの村 すがや』昭和40年(1965)

三、村のうつりかわり

(1)大むかしの郷土(きょうど)

 わたしたちのすんでいる郷土にいつごろから人びとがすんでいたか、また、そのころの人(ひと)びとのくらしかたや、近(ちか)くにある、こふん、についてかんがえてみましょう。
 これらのことをしらべることによって、郷土のおいたちが、だんだんわかってきます。郷土菅谷村(すがやむら)には、大むかしから人びとがすんでいました。
 現在(げんざい)の古里(ふるさと) 吉田(よしだ)部落には、今から千三百年ぐらい前に人びとがすんでいたと考えられます。また、これよりもっと前に、現在の広野(ひろの)の広正寺(こうしょうじ)ふきんに人びとがすんでいたとも考えられます。このようなことが、どうしてわかるのでしょうか、考えてみましょう。それには、このころにつかわれたと思(おも)われる、道具(どうぐ)とか、はにわとか、玉類などからそのころの年代(ねんだい)や、くらしかたがわかるのです。

○ 広野の広正寺の東の方から、このころにつかわれたと考えられる、石でつくられた道具が発掘(はっくつ)されました。石でつくられた道具をつかっていた時代を、石器時代(せっきじだい)といいます。年表(ねんぴょう)でしらべてみましょう。
○ 古里、吉田部落には、たくさんのこふんがあります。塚(つか)ともいっています。
大むかしの、おはかのことです。このこふんからは、はにわや、玉類などが発掘されました。はにわのつくられたころは、大和(やまと)、飛鳥時代(あすかじだい)といわれています。またこふん時代ともいいます。
年表でしらべてみましょう。
○ こふんは、大むかしにつくられたものです。今では、ほとんどこわれてしまいました。そのために、そのころの村のしくみや、文化を知らせるようなものは、のこっていません。
しかしいくつかのこふんは、むかしのままになっています。わたしたちはこのこふんを大切(たいせつ)にしましょう。
○ 石でつくられたどうぐは、物を切る時につかわれたと思われる、石ふです。
また、火をおこすときにつかわれたと思われる発火石です。
○ はにわは、土でつくられた人形です。
はにわ、石ふ、発火石は学校にあります。よくみましょう。

こふんの分布図(ぶんぷず)
こふんの分布図

(2)村のうつりかわり

 村のくいきができたのは、今から七〇〇年ぐらい前(鎌倉時代)(かまくらじだい)からだといわれております。人びとはおもに、のうぎょうでくらしをたてていました。そのあいだに、山林をかいこんして畑にしたり、ひくいところを田にしたり、沼(ぬま)や用水路(ようすいろ)をつくったりして、できるだけじぶんたちのせいかつが、ゆたかになるようにどりょくしてきたこととおもわれます。
 今から三〇〇年ぐらい前今の大字(おおあざ)(古里村、吉田村、越畑村、勝田村、杉山村、広野村、太郎丸村)ができました。
 明治(めいじ)十七年(1884)になって、七つの村が一つになって、七郷村(ななさとむら)ができました。そののち八十年ばかりたって、昭和三十年(1955)に菅谷村(すがやむら)とがっぺいし、今の菅谷村になりました。
○ 年ぴょうをみてどんなことがいつおこなわれたか、しらべてみましょう。
○ むかしのおまつりや、行事などについて、年をとった人にきいてみましょう。

(3)村のしごとのうつりかわり

 みなさんの家に、むかしのどうぐで、どんなものがありますか。お家の人に、むかしのしごとのようすを、きいたことがありますが。三、四十年前と今とでは、しごとのやりかたが大へんかわっています。つぎにしごとのちがいを、くらべてみましょう。

・いねのさいばい、とり入れについて

田うない、しろかき
  三十年ぐらい前
    馬や牛
  げんざい
    こううんき

じょ草
  三十年ぐらい前
    手でとる、がに爪、手おし車
  げんざい
    じょ草やく
      手おし車

だっこく
  千ばごき−足ぶみだっこくき−だっこくき(モーターはつどうき)

もみすり
  からうす−もみすりき

・むぎのだっこく

 さな、ふりぼう−足ぶみだっこくき−だっこくき(モーター、はつどうき)

 このほか、かわっているしごとがたくさんあります。中には、、むかしおこなわれたしごとで、今は、やらなくなったものもあります。今から四十年ぐらい前は「はたおり」。といって、まゆからいとをとり、きぬのぬのをおるしごとがさかんで、むすめさんたちは、まい日はたおりをしていました。  また、むかしは、わたの木をつくりわたからいとをとって、もめんのぬのをつくったこともあります。みなさんの家にも、いとぐるまのある家があるでしょう。
 かいこをかう方ほうも、大へんかわっています。どんなことがかわったかしらべてみましょう。
 むかしから、しごとのやり方がかいりょうされてきたことによって、人手をすくなくして、たくさんの作物をつくるようになりました。また、よの中がすすんできたので、きものなどはじ分でつくるより、よそでつくったものを、かった方がつ合がよいのです。むかしは、じぶんたちでつかうものを、じぶんたちのてでつくりましたが、いまは、じぶんでつくったものを、売って、よそでつくったものを、かうようにしています。

(4)こうつうのうつりかわり

 みなさんは、庚申様や、馬頭尊や、道祖神などが道ばたにあるのを知っていますか。どんなところにありますか。こうしたものが山の中の道や、今はあまり人のとおらない草のしげった道ばたなどにあります。このような道がむかしの大どおりなのです。
 むかしは、自てん車も自どう車もなく、に車などもつかわないで、にもつは、馬のせにつんでいきました。今でも一駄(一駄は米二ひょう。桑六ぱ)ということばがのこっています。ですから今のようにひろい道は、ひつようがなかったわけです。
 そののち、明治になってからに車もつかわれ、道もひろくしたいらのところを、とおるようになりました。今ある村の大どおりは、明治のなかばからおわりごろにできたものです。
 古里の県どうができたのは、明治二十三年(1890)で、このみちができたので馬車がとおるようになりました。そののち、大正のはじめごろ一時バスがとおりましたが、のる人が少いのでやめになり、大正のおわりごろ(四十年ぐらい前)に、ふたたびバスがとおるようになりました。
 古里から菅谷に行くどうろ(七郷地区中央どうろ)も、このころできたものです。二三年前みちはばをひろくし、まがったところをなおして、昭和三十八年(1963)四月からバスがとおるようになりました。
 東上線ができたのは、大正十二年(1923)(四十三年前)です。石たんをもした汽かん車で、東京まで二時間ぐらいかかったそうです。それでも、熊谷まであるかずに嵐山駅から東京に行けるので、村の人びとはたいへんよろこんでいました。
 そのころは自てん車もすくなく、一つの字にいくだいもありませんでした。

・自てん車、バイク、自どうしゃが、村になんだいぐらいあるかしらべてみましょう。
・庚申様や、道祖神や、馬頭尊が、どこにあるかしらべてみましょう。
・さいきんどうろをひろくしたところや、まっすぐにしたところをしらべてみましょう。

菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年)
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