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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第11節:社会科副読本

『わたしたちの町 らんざん』昭和52年(1977)

六、これからの嵐山町

 わたしたちの嵐山町は、今から二十一年前(1955)、菅谷村と七郷村がいっしょになって、大きな菅谷村になりました。その後、すむ人がだんだん多くなって、九年前(1967)町になりました。この二十一年前の間、嵐山町はずいぶんかわってきました。
 今までの嵐山町では、米作りやむぎ作り、ようさんなど、のうぎょうが中心でした。しかし、この頃は、のうぎょうをする人よりつとめにでる人の数の方が多くなり、のうかのようすもだいぶかわってきました。
 のうかでは、米作りやようさんをするだけでなく、野菜やくだものを作ったり、かちくをかったりすることが行なわれるようになりました。一年に一どだけの米作りでは、しゅう入がすくなからです。
 そのために、新しいぎじゅつをとり入れたり、みんなで力を合わせたり、いろいろくふうしています。役場やのうきょうでも、このことをいっしょうけんめい考えています。
 町のあちこちにじゅうたく団地や工場ができ、また、菅谷館跡には県立歴史資料館ができました。全国婦人教育館の建設工事も進められています。
 バイパスも作られ、交通はもっともっと便利になると思われます。しかし、交通事故、自然はかい、公害などがこれからの問題としておこってきます。
 美しい自然、数多くの史跡、文化財に囲まれた嵐山町は、これから新しい産業地として、また文化の中心地として、さまざまの問題をかいけつしながら大きく発展していくことでしょう。

 わたしたちは、この嵐山町をいつまでも美しくて住みよい、楽しいふるさとにするようにどりょくしましょう。
 みなさんが考える『よい嵐山町』というのは、どんな嵐山町でしょうか。
 また、そのような嵐山町になるようにするには、みんながどんなことをしたらよいのでしょう。よく話し合ってみてください。

嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月)
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