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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第11節:社会科副読本

『わたしたちの町 らんざん』昭和52年(1977)

五、町のうつりかわり

(4)町へのあゆみ

・のりもののうつりかわり
 むかしは、ほとんどのりものはありませんでした。遠くの神社やお寺におまいりするにも、みな歩いて行きました。
 そのころは、道もせまく、あかりもありませんでした。またとちゅうで、病気や大水によるきけんも多かったのです。このため、安心して旅ができるように、道のあちらこちらにこうしんとうやじぞうさまなどをまつりました。
 どんなところにあるか気をつけて見てください。いろいろな石のとうがあるところが、むかしの大どおりなのです。馬やかごにのって旅をしたのも、このころのことです。
 今から九十三年ほど前(1883)から熊谷を汽車が通るようになりました*1
 東上線は、大正十二年(1923)、今から五十三年ほど前から走るようになりました。石たんをもやした汽かん車で、東京まで二時間ぐらいかかったそうです。それでも、熊谷まであるかずに嵐山駅から東京に行けるので、村の人たちはたいへんよろこんでいました。
 バスは、大正のはじめごろ一時走りましたが、のる人が少ないのでやめになり、大正のおわりごろに、ふたたび走るようになりました。
 まがった道をなおしたり、新しい道が作られたりして、嵐山町の交通もこれからますます便利になることでしょう。

*1:1883年(明治16)7月28日に上野―熊谷間に仮営業を開始した日本鉄道。上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷駅が作られた。

・学校のうつりかわり
 町には、三つの小学校と二つの中学校があります。なかでも、三つの小学校は、それぞれふるい歴史があり、世の中の役にたつりっぱな人びとがそつぎょうしています。
 わたしたちの学校の歴史を年表でしらべましょう。

年次 ことがら
明治 六年(1873)杉山小学校ができた
一二年(1879)杉山小学校を新しくつくった
一二年(1879)吉田小学校ができた
一九年(1886)昇進学校ができた(杉山・吉田学校がっぺい)
一九年(1886)城山尋常高等小学校ができた(千手堂)
二二年(1889)昇進学校が七郷尋常小学校となる
二五年(1892)宗信寺尋常小学校ができた(鎌形)
二五年(1892)校舎を大字菅谷東側にうつす
三三年(1900)城山尋常高等小学校となる
四一年(1908)菅谷第一尋常高等小学校となる
四三年(1910)七郷尋常高等小学校となる
大正 六年(1917)菅谷第二尋常小学校やける。七年に新しい校舎できる
一一年(1922)鎌形尋常高等小学校と名前をかえる
昭和 五年(1930)七郷小学校二階建校舎となる
一四年(1939)菅谷村の火事で学校がやけた(1935)ため、新しい学校ができる
一六年(1941)菅谷・鎌形・七郷国民学校となる
二二年(1947)菅谷・鎌形・七郷小学校となる
三〇年(1955)菅谷村立菅谷・鎌形・七郷小学校となる
四二年(1967)嵐山町立菅谷・鎌形・七郷小学校となる
四七年(1972)三階建鉄筋校舎にうつる(菅谷小)
四九年(1974)  〃        (七郷小)

・町村合併
 明治のはじめ(一〇〇年ぐらい前)今の鎌形は、鎌形村内郷、鎌形村植木山とわかれていました。どちらも小さい村で、家の数も三〇戸たらずの小さな小さな村でした。小さな村が別々に仕事をしていることは、なにかと不便なので、合併して鎌形村となりました。
 古い名前の村が菅谷村、七郷村となったのは、明治二二年(今【1976】から八十七年ほど前)です。昭和三十年(今【1976】から二十一年ほど前)に、菅谷村と七郷村が一しょになって菅谷村が生まれました。また、昭和四十二年(今から九年ほど前)に、町にすむ人達が多くなったので、菅谷村を嵐山町としました。今の嵐山町ができるまでには、長い年月がかかりましたね。

・人口の変化 団地 工場
 わたしたちの町の人口について考えてみましょう。人口というのは、おとなもこどももそしてとしよりもあかんぼうも、町にすんでいる人ぜんぶの人ずうです。
 人口はまい年すこしずつかわっていますが、長いあいだのかわりかたのようすをみると、とくべつなできごとがあったときのほかは、すこしずつふえていくようです。
 下のグラフは、およそ四十五年ぐらいまえからのわたしたちの町の人口のかわってきたようすをしるしたものです。
 町の人口がどのようにかわってきたかグラフをみながら、みんなではなしあってみましょう。
 昭和三十六年(今から十五年ほど前)に、平沢に嵐山町ではじめて、じゅうだく団地ができました。
 菅谷・川島・広野地区などにもつぎつぎにじゅうたく団地ができ、昭和四十五年(今から六年ほど前)に志賀地区の田んぼをうめたてて、そこに大きなじゅうたく団地ができ、きゅうげきに人口がふえました。そこにすむ人たちの多くは、むさし嵐山駅から東松山や東京方面へつとめに出かけます。
 また、工場もたくさんできました。明星食品、昭和機器、嵐山プレス、その他いろいろな工場があり、それらの工場へつとめる人も多くなっています。
 このように人々のしごとは、いろいろにかわってきました。

嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月)
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