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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第7節:七郷村郷土研究(抄)

第二編 郷土研究

第五章 七郷村の觀察

第十一節 七郷村の交通

觀察要項

1 先づ村の道路の重なるものを調査し之れを觀察させること。
2 他の町へ通ふ道路がどの位よい道か、つまり車道か駄馬道か如何。
3 水路の利用すべきものあるかないか。
4 鐡道に對してどんな處にあるか。
5 道路の改良及び経済上との関係

七郷村の道路

 A 縣道熊谷小川間縣道は本村大字古里東部字駒込より同字の南部及び大字越畑の西部を通 過して字櫛引に至る此の間約十五町なり。該縣道に旅客馬車の設けがある。抑々(そもそも)我が七郷村は、名勝あり、舊蹟あり、亦神社佛閣の名あるもの少な からざるに、余りに世間に知られて居ない。之れ一に交通不便なるに起因するもので、従来本村内にて幅廣き道路は只前記縣道があるだけである。他は羊腸たる 里道に過ぎない。殊(こと)に雨期に入らば此の道路非常なる泥濘(ぬかるみ)を極め、交通の全く杜絶するの感がある。之れがため村の産業の發展は阻害せら れ、加ふるに村形の狭長なる(南東より北西に長く凡そ三里、幅凡そ半里)は村教育の増進上遺憾の点が少なくない。

 B 村民大いに考慮する處あ り。明治四十一年(1908)四月、遂に村内道路改修の議起るや、村會は満場一致の決議にて之れを可決し、仝年七月二十九日補助工事申請をなし、四十二年 (1909)四月許可せられた。而して工事に着手せしは仝年二月(繰上工事)にして村民の日夜寝食を癈し、以て難苦缺乏勞役に服せし結果、仝四十三年 (1910)三月、全く竣工を告ぐるに至れり。此の間一ヶ年二ヶ月、道路改築總延長八千七百六十四間(四里二町四間)。其の内甲線は四千三百四十五間幅十 尺、乙線は二千七百三十六間三尺幅九尺、丙線は一千九百九十三間三尺幅九尺にして、之れに要せし費用、實に一万三千九百七十五円五十銭なり。此の多大なる 費用、多大なる労力、之れ村民至誠の致せる所にして誇りとするに足るべきなり。之れがために菅谷村に通すべき七八町の道路は改築或は新築せられ、男衾村に 於ける十數町の道路本村民の亦経營する所となつた。甲線は村を縦断し、南は小川松山間の縣道に連携し、乙、丙線二線は村を横断し、熊谷小川松山の各驛へ出 づるの便をはかつてゐる。

 C 茲に於て七郷村の交通不便なりしは全く一變して、他村に其の比を見ないやうになつた。之れ實に村民努力の表現にして、之れがために一万數千円を要した校舎は村の中央に新築され、児童の就學、出席の歩舎は増し、本村産業は勃興の機運に向ったのである。

七郷尋常高等小学校(板倉禎吉編)『郷土研究』(嵐山町立七郷小学校蔵)
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