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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第7節:七郷村郷土研究(抄)

第二編 郷土研究

第五章 七郷村の觀察

第十節 七郷村の沿革

觀察要項

 本村は明治十七年(1884)までは古里村、吉田村、越畑村、勝田村、杉山村、廣野村、太郎丸の七箇村であったが、仝年地方有力者が之れを聠合して壹箇村に改めたが時にこれが名称には苦慮したが遂に七村なるより七郷の村名を附し旧村名を大字となした。

2 偉人豪傑碩儒及び忠戦の士

A 寶齋翁
 抑(そもそも)寶齋翁は文政八年(1825)十月十日比企郡七郷村大字杉山九番地に生れたり。幼名を多門と云ひ後義順と称し寶齋(ほうさい)と號す。家代々本山修験にして本務の傍ら児童を集めて教養をなせり。翁は七歳にして父に別かれ母の手に養はれしが幼より勉學の志厚く出て、熊谷町に至り大膳院と称する同職の家に勤學し後江戸に遊學し十七歳の頃帰って家名を嗣ぎ大いに児童教育の道を開きて薫陶せり。翁は祖父母なく兄弟なく母子二人にて一家をなすこと数年、孝心特に深くして其の母に仕ふるの情遠く常人の及ぶ所にあらず。資性温厚篤實にして擧止方正常に温顏を以て人に接し終生翁の怒りを見たるものあらざりき。門弟子を遇する慈愛懇切にして諄々教導せしかば門弟子の翁に仕ふること父の如く母の如くなりし。為に四隣仰慕し来って教へを受くるもの常に百有余人に及びたり。翁は特に能筆にして詩文に長し亦善く歌道に通ぜり。其の揮毫製作の今に遺存せるもの多し。明治初年學制頒布し各地に小學校の設けらるるに當り門を閉ぢて退隠し後神官となりて餘命を送り明治二十一年(1889)六月二十六日享年六十六歳にして病没せり。翁に三男三女あり。三男皆小學校教員となりて父の業をつぎ長子大倉氏の如き教職にあること二十年の久しきに亘り、次男文悟氏は今に教職に従事し居れり。尚翁の門人にして或は小學校教員となり或は官吏となりて其の職に居るもの多し。明治十六年(1883)六月数百の門人相謀り醵金して碑を建て翁の徳を永遠に傳へんとす。翁の如きは古の所謂善人君子にして其の徳一郷に普きものと云ふべし。
B 寛山師
 師は比企郡菅谷村大字菅谷の一農家に生れ幼少の時出家して同地東昌寺の徒弟となり後同寺の住職となり法務の傍ら児童の教育をなし、四隣より来って教を受くるもの常に數千人に及べり。後仝郡七郷村大字廣野なる廣正寺に移り益々児童教育の道を擴め百有余人の門弟子日々寺門を出入するに至れり。師は資性端厳にして威貌犯し難しと雖も教導懇切にして児童を慈愛せしめば弟子能く師の教を守り品行方正にして學藝に熟達せしもの多く師特に精氣強剛にして般若経六百巻及び般若理趣分若干巻心経一千餘巻を書寫し般若経は一巻と一軸に勢し、門弟子及び檀徒の信者に分與し今に各家に保存せり。これを一見するもの其の苦辛の大なるを感ぜざるなし。師が之れを書寫するに當てや多くは夜中を以てし手燈と称して左掌に種油を注ぎ燈心を入れて之れに燈火し寝食を忘れて従事すること十年の久しきに亘りて完成を告げたりと云ふ。右【上】の外神社佛閣の旗等師の揮毫にして現存するもの多し。師は又博学多藝にして詩歌文章俳諧等の道に通達し斯道の宗匠として其の名高し。眞に當時の名僧智識たりき、師退隠の後門弟子にして其の後をつぎ児童教者の任に當りしもの十數人に及べり。惜いかな師は年未だ五十四歳にして病没せり。死に先だつことを数年前即ち慶應二年(1866)門弟子相謀り師の徳を永遠に傳へんとして碑を建てたり。

3 古蹟古文書を調査して之れを以て精神修養の資となすこと

A 大字杉山壘蹟
 大字杉山壘蹟は字の中央部にて小高き丘の上千五百坪許の地を云ふ一説に昔金子十郎家忠の居住なりしと云へと詳ならず又傳ふるに中古上田氏の臣にて主水(杉山主水とも云)と云ふ者住せし所とも云へり。按ずるに隣村越畑も庄主水か居住の地あり是當國七黨の内児玉黨の庄権頭廣高庄太郎等が子孫なりとにや又北條家人にも庄式部少輔庄新四郎の名見たり、若くは是等の一族ならんと風土記にあり。
B 大字越畑壘蹟
 仝字の西部にありて土地の人其所を域山とはいふ。今は田陸なりて何時の頃何人の住せし事詳ならず。或は云ふ庄主水と云ふ人の居蹟と云へど其の年代も定かならず。按ずるに當國七黨の内児玉黨に庄権頭弘高なるものあれば是等の後裔なるにや小田原攸帳に庄氏の人見えたりと武蔵風土記に依る。
C 古史
イ 舊家七郷村大字古里七百八拾九番地安藤寸介氏の家
 祖先は藤原家より出で中家徳川氏の麾主地頭有賀滋之丞より中小姓を命せられ後名主となり。苗字帯刀を許され代々安藤山三郎と云ふ。三代山三郎氏は越後高田城主松平忠輝公の臣となり慶長十九年大坂冬夏陣に参加し切ありて、信越の地二百石を賜はる。安藤寸介氏は過去帳に現はれたるを計へて十七代なる事明なり。
ロ 舊寺七郷村大字廣野廣正寺
 廣正寺は今を距ること二百余年前寳亀年間將軍徳川家康公の家臣高木廣正の開基にして高木山廣正寺と云ふ。世々高木家の菩提所にして茶料として二十石の朱印を賜はり。維新の際に至りて止む。高木廣正は佛法を信じ老年に及び當時に居を移し一城を築きたりしかば今猶城址の存するありて俗に陣屋臺と称す。當時は釋迦牟尼佛を安置せり飛彈工匠の作なりと傳ふ(朱印文等今猶傳へらる)
D 古文書 舊家安藤寸介氏に傳はる御墨附
     知行目録
 一、六拾弐石    越後傾城郡
            板倉郷未増村
 一、廿石五斗    信州更科郡
            須立村内
 一、百拾七石五斗  同郡須立村
            平林村内
  都合弐百石也
 右宛所爲全て領地者也
  慶長廿年九月十一日
       忠輝
        安藤山三郎へ
E 本村に於ける西南事変以来の名譽の戦病死者
イ 大字古里故東京鎮臺陸軍歩兵伍長安藤仙重郎
 氏は明治十年(1877)西南の役に参加し部下兵卒を指揮し能く敵を悩まし處々に轉戦せしが仝年(1877)二月廿六日敵の白匁を負ひ遂に名譽なる戦死を遂げらる。現に熊本縣玉名郡南関驛緩十町の山頂に墓標あり。
ロ 大字古里故陸軍歩兵上等兵飯島政次郎
 氏は明治三十七、八年戦役に豫備兵にて召集に應じ旅順攻圍に加はり處々に轉戦し水師營南方高地に於て奮闘の結果遂に名譽なる戦死を遂ぐ。
ハ 大字越畑故陸軍歩兵上等兵青木佐兵衛
 氏は明治三十七、八年戦役に豫備兵にて召集に應じ遂に左の報を家に送らるるに至る
     (中隊長の報知文の寫)
 甚だ唐突之至りに御座候得共御令息様上等兵青木佐兵衛君の訃を報するの悲運に遭遇し御一家の御悲嘆は素より小官等一同も哀悼措く能はず誠に断腸の思ひ仕候去りながら天命如何とも仕り難く武夫君恩に報じ國家に殉ずるの誠忠既に御覺悟之事とて今更申上ぐる迄も無之儀と存申候。
 故佐兵衛君は實に本年二月充員召集と共に當中隊に編入せられ同二十日暴露膺懲の大命を奉じ東京出発翌三月十三日宇品解纜同十八日韓国鎮南浦上陸来百難を犯して韓山満地を跋渉し万苦を排して各処に轉戦被致就中鴨緑江二道渾河分水峯岫巖様子峯遼陽陽沙河等の激戦に常に勇戦奮闘實に軍人の好模範となり又戦闘後は諸種の困難なる業務に従事し熱心勉励大に衆人の敬慕致し居り候処に御座候。惜ひ哉君は十一月二十七日当地の風土病なる悪性の風邪に冒され十二月一日入院加療中腸窒扶斯症に變じ遂に薬石効なく客に三十七年十二月二日沙滸屯兵站病院に於て心静かに永眠被致候。病没とは謂へ君は上記の如く南戦北闘致候処の偉勲を奏し君恩を報じ己の武職を全ふせられ誠に武夫の本懐と存じ候。何卒天運の儀御諦らめ被降度候。先不取敢死亡御通知旁御吊詞迄如斯御座候早々。
 追而佐兵衛君の戦役に関する勲功は其の筋へ稟申致置き候間何れ充分なる恩典に接らるる事と存候。尚又遺骨ハ不日其筋より御送付可相成ニ付是又御承知被降度候。
 三十七年十二月五日
          近衛歩兵第二聯隊第一中隊長
                 陸軍歩兵大尉土屋斉
 青木市五郎殿
ニ 大字吉田故陸軍砲兵上等兵小林正治
 氏は、明治三十七、八年戦役中遂に左の文を家婦に送らるるに至りぬ。
 拝啓正治君御事本月二十日名誉の戦死を遂げられ申候。君應召以来
 孜孜軍務に勉励し出征後も能く其の職務に従ひ愈々本舞台にたる當陣地の築設を終り去月十九日戦闘開始君は砲手中の五番砲手として勇敢機敏に其の任を尽さるる折柄敵弾烈しく集中したるも君は単に微傷を負はれたるに止まり爾来一層奮励其職に従事し属々敵弾雨中の下に勇敢に動作せられしも無事に経過致し居候処惜哉本月十九日の激戦に敵の榴散弾は終に君をして重傷を負はしめ申候。依而即刻入院加療中の処其の効なかりしものと見え本月二十日死亡の通報に接するに至る。遺憾幾可ぞや。實に小官のみならず中隊一同の誠に悼惜する処御遺族に於ても充分御覚悟の御事とは存候へども御哀傷の程御志の次第と深く御察し申上候。乍去君既に竭す処甚だ多く赤誠其職に従事し死地に入ること数回同僚の弔戦をも済せたる後身亦重傷を負ひ為に落命せられたるものにして無上の死所を得たるものと云ふべく此之後御遺族の御心情を慰藉するに足らんものと申候。
 不取敢右弔詞迄如此に御座候。
 明治三十七年九月二十六日
            第一中隊長 野尻巖
 小林ミカ殿
F 徳川時代の沿革管轄所属石高 イ 大字古里
 正保の頃(1644-1647)には高室喜三郎御代官所及び酒井紀伊守、有賀半左衛門、市川太左衛門、内藤權右衛門、松崎權左衛門、永井七郎右衛門知行とあり。後、寶暦年中(1751-1764)に至り御料所の分を清水殿の領地に賜はりしに寛政年中(1789-1801)上りて御料所となれり。松崎權左衛門の知行は子孫權左衛門忠延の時延享二年(1745)七月二男松崎伊織幸喜に分てり。酒井紀伊守の知行は子孫兵部の時上りて元禄十壱年(1698)永井五左衛門、市川瀬兵衛、内藤熊太郎、有賀滋之丞、松崎藤十郎、仝弥兵衛、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛の知行所成り。
ロ 大字吉田
 吉田は松山領に属せしが御入國の後折井市左衛門、山本四兵衛、曽我又左衛門、松下清九郎等に賜はれり。其の内山本四兵衛に賜りしは寛永十年(1633)二月のことなりと家譜に載せたり。曽我又左衛門の知行は何の頃か変りて菅沼氏に賜りしなるべし。明治初年迄折井九郎治郎、山本大膳、菅沼又吉、松下内匠等知行せり。
ハ 大字越畑
 越畑は御打入の後、高木筑後守廣正か永邑にして其の子甚左衛門か時、慶安元年(1648)検地せり。其の後、元禄元年(1688)替りて御料所及び酒井但馬守か知行となりしに、同十一年(1698)御料所の内を割て山高十右衛門に賜はり、又享保十二年(1727)残りし御料所の分を黒田豊前守、羽太清左衛門の二人に賜りて明治初年迠高木、山高、黒田、羽太等の子孫四人の知る所なり。
二 大字杉山
 杉山は御打入の後は森川金右衛門氏俊に賜はり明治に至る迄子孫美濃守知行せり。検地は慶長二年(1597)時の地頭森川金右衛門糺せりといふ。
ホ 大字廣野
 高木筑後守廣正に賜はりたるは御打入の後にして其の後子孫続きて知行せしが、元禄十一年(1698)御料所となり、同十三年(1700)黒田豊前守にたまひ、同十七年(1704)木下求馬、島田藤十郎、内藤主膳、大久保筑後守か家に賜りてより明治初年まで替らず。
ヘ 大字勝田
 勝田は松山領に属し後正保の頃(1645-1648)より岡部外記か知行たり。子孫続きて知行せしか安永元年(1772)岡部徳五郎罪ありて没収せられ御料所となり、同九年(1780)猪子左太夫に賜りて其の子孫榮太郎、明治前迠知行せり。
ト 太郎丸
 水房庄松山領なり。古は水房村の内なりしが寛文五年(1665)検地ありしより別れて枝郷となれり。此の検地の時村民太郎丸とへるもの案内せしよし水帳に記したれば、當村は此の太郎丸が開墾せし地にて村名とはなれり。後岡部氏の知るところとなりしか安永元年(1772)収公せられ同九年(1780)猪子左太夫に賜はり明治初年迠其の子孫榮太郎の知行たり。石高不詳。

七郷尋常高等小学校(板倉禎吉編)『郷土研究』(嵐山町立七郷小学校蔵)
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