第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 (1939)
郷土の便り(広野)
小林森久
御在隊の皆様御機嫌は如何ですか? 暫く御無沙汰して居りましたが団報発刊に当り、皆様の御留守に起った広野の近況を記述して村の様子を知って戴き、併せて御無沙汰御詫びにさせて戴きます。事変が長引くにつれて、聖戦参加の皆様方勇士の数が益々多く成り、銃後は非常に手不足を感じます。然し、生産拡充、勤労倍加の意を体して、私達広野の若人も、今元気一杯に皆様御留守の郷土を守って毎日農耕にいそしんで居ります。稲も見事な穂を揃へました。今年は春の気候の関係で田植が遅れ其の作柄も案ぜられましたが其の後土用に入っての暑さと適当な雨量とに案外立派な成育振りをみせて秋に入っての気候も良く今瑞々(みずみず)しい穂波を耕地一面にうねらせて居ます。気遣われた颱風も事無きを得そうで本年は豊作の見込が付きました。
比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月
亦欧州戦争の余波を打けて生糸の奔騰(ほんとう)に可成りの高値を出している蚕も只今晩秋蚕上蔟中です。今年の蚕況は、春は普通で値段は八円位でした。初秋蚕は一寸上作とはいへませんでしたが値段に於て九円位の高値が見られ晩秋蚕亦、少々成績は面白からぬ方もある様ですが、値段が十一、二円等の呼声高く先づ先づ皆様の御留守も農家は万々歳とも言へませう。唯色々の物資統制の中に交って肥料が配給制度に成った事は今迄と違って一寸不便を感じます。然しこれとて戦地に於て、食糧も無く、弾薬もまた無きあらゆる困苦欠乏に耐へて戦ふ皆様方の事を思へば、私達とてもあらゆる方策をめぐらしても耐えてゆかねばならぬことでせう。
次に皆様方の御武運長久をお祈りする祈願祭は、今も尚毎月十九日に厳粛に施行されて居りますが、能見神官殿が八宮神社の社前に報告申上げる勇士の御名は月々に依り時々変りが御座います。一月には高木君が、八月には権田重明君が晴れの凱旋をなされまして、嬉しい帰還報告をされ、亦五月には内田増蔵君の応召、権田愛作君の海兵団入団、六月には権田本市君の応召が御座いまして、新しく三君の御名が加へられました。広野の現在隊のお方は【5字墨塗】御座いまして、秋には杉田徳治、井上彦輔、栗原角男の三君が入営する事に成って居ります。
二月に行われた故宮田伍長の村葬は折柄の春雨に一入(ひとしお)の哀愁をそそる盛儀でしたが、其の後も在郷軍人や青年団や其の他一般の方々の墓参に、香煙るるとして絶える間も御座いません。
扨て皆様は長い伝統と歴史を持つ消防組が解散して、新しく防護団と合併して警防団を結成した事を御存知でせうか。
皆様もおそらく消防組居んたる御方が多う御座いませうか何時の間にか消防手を辞めさせられて新らしく警防団の辞令を受けて居られることを御承知ですか。去る七月にはこの新しい警防団を動員して初の防空演習が行われ可成りの成績を挙げました。
銃後の護りは愈々鉄筋コンクリートです。
皆様方の御留守中に亡くなられた方、生れた子供さんも数有りますが、それらは省いて此処にお婿さん二人を御紹介いたしませう。一人は下郷の権田亀太郎さんのお宅で静江さんの夫として長次さんと云ふ二十五才の青年を宮前村中尾から一月の下旬に迎へました。背の大きい立派な方です。第一補充兵です。もう一人は七月に亡くなられた永島廣吉さんのお宅でつえさんが、大岡村大谷から寅武さんと云ふ廿八才の方を迎へられました。左官屋さんで非常な腕のいい働き者だそうです。
九月九日、十日の二日間は広正寺に於て私達七郷村青年団の主催で五箇村連合仏教会後援の修養会が開かれました。私達は或ひは一週間の剣道練習会に身体を練り、今この修養会に精神を練り、かうして心身共に練りに練って銃後国防の完璧を期しているのであります。今宵は仲秋の名月です。澄み切った空に銀盆の如き名月が輝いています。おそらく皆様の上にも同じ光を投げかける月で御座いませう。かうしてじっとこの満月に魅入っていますとあおの歌の文句を思ひ出します。
月が鏡であったなら 遠い貴男の俤(おもかげ)を……と
長くなりますからこの位でペンを止めます。
呉れぐれも皆々様の御健康と御武運長久を祈上ます。