第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
一、村に於ける銃後施設の組織及活動状況
本村は昭和八年(1933)経済更生指定村となり、県下に稀なる難村、即ち経済上に思想上に殆んど手も足も付けられざる程の行詰りを打開し、全村民一丸となって更生に邁進し、更に昭和十一年度(1936)特別助成村として経済更生上緊要なる諸設備を完成し、一糸乱れぬ統制組織を整備し、着々更生の実を挙げ、昔日の面目を一新せる折柄、今次の事変を見るに当り、応召将兵多数に上り、農業経営に及ぼす影響多大にして、然かも事変の前途遼遠なるに鑑み、経済更生と相俟って、銃後の護りを強化し、応召農家の生活安定と農業経営の確固を計り、以て国民総動戦に対処すべき方針を樹立せり。即ち経済更生委員会を銃後統制委員会とし、新に勤労奉仕部を設け、村内二十二の農事実行組合を中心として勤労奉仕班を編成し、五人組班を一組とせる細胞機関を設け、青年団其の他の諸団体、小学校亦側面より協力し、応召農家の労力不足を援助すると共に、災厄農家の労力を補充し、場合に依り、応召農家の小作地自作地の共同管理を行ひ、全村耕地の生産力減退を防ぎ、隣保共助の実を挙げ、一面共同施設の奨励と共同作業の実施督励に努め、以て一円融合勤労報告の至誠を致し、銃後農業経営の万全を期せり。
又、出動将兵後援会を組織し、資金の募集に努むると共に、推譲の美風養成を計り、是が資金を以て出動将兵の餞別、遺家族慰問金の贈呈、慰問品の発送をなし、又、春秋二回遺家族慰安会を開催し、万歳、浪曲、講談、奇術等の余興を観覧せしめ、尚、青年団開催の活動映画に招待する等、家族慰安の道を講じつつあり。各神社に於いては、毎月一回日割りを定めて出動将兵の武運長久戦勝祈願祭を執行し、一日・十五日の両日には、各団体員は勿論、一般村民は神社参拝をなし、又毎朝、宮城及神宮遥拝を行はしむ。寺院に於ては住職の有無に拘らず、戦勝祈願、出動将兵の健康祈祷、并に戦病死者の慰霊を行はしめつゝあり。
尚、国民協同戦線に於て銃後国民の負ふべき経済戦の為め、村民全部、従来の更生貯金の外に愛国貯金として、販売物中、米・小麦は一俵に付五拾銭、繭は一貫目に付二十銭乃至三拾銭とし、天引貯金を励行し、青年団員は毎月三十銭、小学校児童は五銭以上貯金を行はしめ、以て貯金報国の実を挙げることに努力しつつあり。【勤労奉仕組織体系図 略】
二、各種団体の活動状況
1 農会
銃後農業経営の重大なるに鑑み、個人的経営を部落単位経営に改むる方針の下に、農事実行組合を指導し、生産力拡充の為、共同作業を施行せしめ、以て労力の緩和を計ると共に、機械力利用奨励の為、補助金を交付して、各農事実行組合毎に、動力機の購入、協同農具の整備を為さしめ、労力の補給・調整に努めつつあり。
又、軍部供出に対しては、産業組合と連絡し、農事実行組合単位に割当を為し、之が取扱に当り、大麦・藁・干草・野菜・甘藷・馬鈴薯・兎・真綿等、何れも割当以上の成績を上げつゝあるも、応召農家に対しては、特に之が割当を除き、自由意志に任せたり。2 産業組合
本村経済更生計画の根幹を為せる産業組合は、事変発生と同時に、銃後産業統制の最も緊要なるに鑑み、全能力を発揮して、購販売の統制に、貯金の増加に、共同作業場の能力増進に努めつゝあるが、応召農家に対しては出来得る限りの便益を与ふることとし、生産物の販売に当りては無利子にて仮渡金を交付し、出荷・運搬上の便利を計り、資金の融通、其の他可及的便宜を図りつつあり。
尚、農事実行組合に於ける共同利用、農具購入に対しては、無手数料にて、之が斡旋に当り、銃後農業経営の確立に努力しつつあり。3 男子青年団及在郷軍人分会
各支部・各班毎に農事実行組合と連絡し、側面より応召農家の労力奉仕に当り、特に養蚕期等に於ける労力補助を担当す。
又、青年団支部に於ては、各支部毎に部内応召者に慰問品の発送をなし、特に鎮守神頭に於て遺家族を中心に氏子一同の撮影写真を送り、郷土の一円融合の状を知らしめ、出征将兵をして後顧の憂い無からしむることに努め、部内の新聞を集めて、之を前線将兵に送り、慰問状は団員交互発送して、銃後の安固なるを知らしむることに努めつゝあり。
又、本団に於ては時折、団報を発行して、村情を知らしむると共に、慰安に努むるの方法を講じつつあり。4 女子青年団及国防婦人会
女子青年団及国防婦人会は、毎月、応召兵の留守宅慰問を為し、相協力して家事を手伝い、又、髪毛屑、襤褸、古金具、其の他廃物を集めて之を売却し、慰問品を送り、或は千人針を出征に際し贈呈する等、応召者に感謝の念を与へ、尚、経済更生と相俟って物資節減の為、衣服の新調を見合せ、古衣の手入等に一段の努力を払ひ、且つ軍需生産たる養兎に力を注ぎつゝあり。
5 小学校 青年学校
小学校、青年学校に於ては、経済更生の為め勤労教育に力を注ぎ来たりたるも、事変勃発以来一層意を用ひ、尋常四年以上の児童には養兎と製縄を実施せしめ、青年学校生徒には家庭実習地に軍部供出の野菜・甘藷等の栽培を為さしめ、草刈の実施を励行しつゝあり。
尚、応召農家又は災厄農家に対しては、農事実行組合の了解を得、職員指導の下に労力奉仕をなし、又、通学の往復に児童協力して応召家族のために、産業組合共同作業所迄、精米麦製粉等運搬をなし、勤労奉仕の実を挙げつヽあり。尚、前線将兵に送る慰問文の作製等に留意す。【中略】
五、奉仕美談事例
幾多感激すべき奉仕美談あるも、最も涙ぐましき一例を左【次】に記さん
事変勃発後、農家の戸主として最初の応召を受けたる本村大字広野永島進一氏は、母と妻及六才を頭に三人の子供を残して、昭和十二年(1937)九月応召、直ちに前線に出征せられたるが、母は六十二才の老齢に加ふるに日頃病弱にて、子供の守を為す程度なるを以て、妻ユウさんが家事は勿論、耕作地田畑八反余を独力経営することになったので、畑は草が茫々たるさまになった。
行政史料
之を字内より小学校の高等科一年に通学中の男女児童六名が相談して、日曜を利用し弁当持参で草取りに従事し居るを見て、応召者の家族が涙を流し、「先生が連れて来たのですか」と聞きし処、児童は一斉に「さうではありません。先生は御存知ないのです。家の者も知りません。余り草が生へて作物が可愛想だと思ひ、戦地の兵隊さんも心配なさると思って皆で相談し、今日、日曜を利用して草取りに来たのです」との答。大いに驚き且喜び、その心根を感謝しつつ、午后のオヤツを作って饗応なせし処、児童はそのこころざしを非常に喜び、元気百倍、日の暮るゝまで草取をなし、畑を余さず綺麗に仕上げたのです。
村では、此の話を聞き及び、早速、銃後後援会を組織し、又、勤労奉仕計画を樹立するに至り、今も尚、時々語り草として村人の感激し居る処であります。
※この時期の七郷村役場から出征兵士への慰問文には次のものがある。いづれも、この時期の村内の状況を知ることの出来る貴重な資料である。