第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
日清戦争に勝って朝鮮半島への進出をめざした日本は、北から満州に勢力をのばしてくるロシアを警戒するようになった。1904年(明治37)2月8日、旅順にいるロシア艦隊に対する日本の奇襲攻撃、同月10日の日本の宣戦布告で日露戦争が始まった。戦いの山場の一つは、ロシア軍の支配する軍港旅順を巡る攻防戦であった。乃木希典(のぎまれすけ)の率いる日本軍はその年の8月19日から第1回の旅順総攻撃を行なったが失敗に終わった。日本軍の死傷者1万5860人といわれている。10月26日から第2回、11月26日から第3回の総攻撃を行なって旅順攻略に成功し、1905年1月1日に旅順のロシア軍は降伏を申し出た。この旅順の攻略だけで日本軍は3万6千人を超える死傷者を出した。それほどの激戦であった。この攻防戦で七郷村の兵士も犠牲になっている。それを示す次のような文書が残されている。
上申書
比企郡七郷村大字吉田五十五番地
予備役 陸軍砲兵一等卒 小林正治
右【上】ノ者去九月弐拾日清国旅順口ニ於テ戦死致候ニ付本月
弐拾日午後一時村内大字吉田宗心寺ニ於テ共同葬儀執行
致候間御臨場被成ラ度此段上申候也
明治三拾七年十月十一日
比企郡七郷村長 久保三源次
埼玉県知事 木下周一殿
この上申書は、大字吉田の陸軍砲兵一等卒小林正治が旅順攻略戦に参加し、9月20日に戦死した。10月20日に吉田の宗心寺で戦死者の合同葬儀を行なうので式に臨席願いたいと、七郷村長久保三源次が県知事木下周一に出したものである。これによると戦死したのは、日本軍が第1回の旅順攻略に失敗し第2回目の総攻撃を準備していたときの戦死であったと思われる。同じ文面の上申書が比企郡長坂本與惣次郎にも出されている。文中の合同葬儀という表現から見ると、この葬儀は七郷村から出兵した何人もの戦死者の合同葬儀であった。
しかし、小林正治の葬儀については「戦死ノ件ニ付テハ所属中隊長ヨリノ通知迄ニ止リ未ダ連隊区ヨリ死亡通報無之ニ付テハ同人葬儀執行ノ儀ハ事控サセル様御取計相成度右ハ其筋ヨリ内示ノ次第モ有之」という通知が、比企郡長から村長久保三源次に来て、小林正治の葬儀はその日は行なわれなかった。
その後の七郷村の戦没者名簿には、小林正治の所属部隊は東京湾要塞砲兵部隊、明治37年9月20日満州国旅順付近で戦死と記されている。
1906年(明治39)9月22日日付の二つの領収書が久保家に残されている。一つは「金五拾銭 旅順口建設忠魂寄付金」、他は「金八拾五銭 徴兵慰労醵金(きょきん)」の領収書である。領収書に記された取扱人は七郷村収入役川口勇蔵である。この金を出しているのはどちらも村長ではなく個人としての久保三源次である。
1年前の1905年(明治38)9月5日に日本はロシアとの間でポーツマス条約(日露講和条約)を結んで戦争を終結させた。日本はこれによって朝鮮に対する事実上の支配権を獲得し、ロシアから旅順・大連の租借権や南満州の鉄道の権利を獲得、領地として北緯50度以南のサファリン(樺太)を獲得した。しかし日露戦争の損害は大きかった。『近代日本総合年表』第二版(岩波書店発行)によると、日露戦争による日本の死者・廃疾者(はいしつしゃ)11万8000人、失った艦船91隻、軍費15億2321万円という膨大なものであった。
村から兵士を送り出し、戦死者も出る状況の中で、戦死者を弔い徴兵された兵士を慰労するために、旅順口建設忠魂寄付金の取組みと徴兵慰労醵金の取り組が七郷村として村をあげて行なわれたのである。