ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第2節:戦争の記録

日露戦争と菅谷村

 19世紀末になると欧米諸国は世界各地の分割をめざす帝国主義の時代に入り、日本もその仲間入りをめざした。
 当時、日清戦争でアジアの大国清国(中国)が日本に敗れたことによって、清国の弱体ぶりを知ったヨーロッパ列強は、あいついで清国を侵略して自国の勢力範囲を設定していった(中国分割)。ロシアは日本が日清戦争で獲得した遼東半島を、フランスとドイツを誘って中国への返還を日本に要求して返還させ(三国干渉)、その後遼東半島の先端にある旅順(りょじゅん)と大連を中国から租借(そしゃく)した。これに対して日本の不満が高まっていった。
 1900年(明治33)、清国で「扶清滅洋(ふしんめつよう)」をめざす義和団事件が起こると、日本など8カ国が連合軍を組織して義和団を鎮圧して北京を占領した。このときロシアは満州に軍隊を常駐させて事実上占領した。こうした列強の争いのなかで朝鮮半島の独占的支配をめざす日本と、満州を支配して、さらに勢力拡大をめざしてくるロシアは鋭い対立関係に入って行った。
 1904年(明治37)2月8日、旅順のロシア艦隊に対する日本の奇襲攻撃、同月10日の日本からの宣戦布告で日露戦争がはじまった。埼玉県下からは2万2254名が召集された。日清戦争をはるかに超える大規模の戦争になった。そのため政府は、各県知事に国民の戦争への協力態勢づくりを訴えた。県は郡長を召集して、国債応募、軍需品の供給、出征軍人の家族救護、兵士への慰問などを要請した。県も町村も平常の歳出を削減して、戦費優先の態勢をとった。
 こうした状況下で菅谷村の戦時下の取組みの一端を示す資料を紹介したい。

帝国義勇艦隊建設費の献金

 菅谷村には、根岸與兵衛以下19名が金四拾六円弐拾五銭を集めて帝国義勇艦隊建設費寄付金として菅谷村役場に納め、役場の収入役が出したその受取書がある。この受取書の日付は「明治三十八年(1905)九月九日」である。これに「明治三十八年三月」付けの「帝国義勇艦隊建設ニ付義金連名」が添えられている。それには19名の氏名と寄附金額が書かれている。金額は金五拾銭から最高金拾円である。ところで、この連名簿に書かれている「明治三拾八年三月」は寄付金を集め始めた月と思われるが、それは日露戦争のどんな段階だっただろうか。
 1904年(明治37)2月10日に日本が宣戦布告して日露戦争が始まったが、戦いの山場の一つは、ロシア軍の支配する軍港旅順を巡る攻防戦であった。その年の秋から乃木希典(のぎまれすけ)率いる日本軍は多くの犠牲者を出しながらも難攻不落といわれていた旅順攻略に成功し、ロシア軍は38年1月1日に降伏を申し出た。この頃、ロシアはバルト海に拠点を持つ精鋭のバルチック艦隊を大西洋・インド洋・太平洋をへて、半年ほどかけて日本海に面するウラジオストック港をめざして航海を続けていた。このロシア艦隊を東郷平八郎率いる日本艦隊が、5月27日から28日にかけて対馬海峡で打ち破った。これが世に言う日本海海戦である。実は「帝国義勇艦隊建設」の義金集めが行われていた3月は、ロシアにとっては旅順が陥落し、バルチック艦隊をアジアに急行させており、日本海軍はそれを迎え撃つために全力をあげて準備をしていたときであった。おそらくそういう戦況の中で、非常な熱意で艦隊建設の義金集めに取り組んだものと思われる。

明治三十八年度臨時徴兵慰労義金

 日露戦争に徴兵されて家庭では、家の働き手がいなくなるため、残された家族の生活が大変になる。その家族の救護は戦争遂行のためにも緊急の課題であった。埼玉県では「応召下士兵卒家族救助内規」(1905年7月)を定め、郡長に管轄する町村に「応召下士兵卒家族救護団体」をつくらせて救護活動に当らせた。これは応召されたすべての家庭ではなく、そのため生活困難な者の救護であった。救護団体の生計救護費は1年1戸30銭で、それで不足する家族には、国庫から1ヶ月1円10銭から最高3円30銭を与える。しかし救助する家族の数は郡の応召下士兵卒の十分の一以内と規定されていた。
 ここで紹介する資料は、「三十八年度臨時徴兵慰労義金 金五円八銭」の受取書である。これは大字菅谷の住民60名が臨時徴兵慰労義金を拠出して合計5円8銭を菅谷村役場に納めたとき、収入役がだした受取書である。そのときの義金徴収簿を見ると1銭、2銭から49銭までの多様な額で、平均すると1人8銭5厘になる。義勇艦隊の献金に比べると各家の金額は少ないが、わずかずつでもより多くの家が義金を出していることがわかる。この徴兵慰労義会が県内各郡に創設されたのは1887年(明治20)頃という。兵役義務者にたいする慰労をおこなうことを目的とした。日露戦争では出征兵士の見送り、軍人家族と戦死への慰問、戦死・病死者には葬祭を補助し弔祭(ちょうさい)するなどの事業を行なった。大国ロシアとの戦いに総力をあげていたことがうかがわれる。

悲しい知らせ 旅順口方面の戦闘ニ於テ戦死

 日露戦争に召集された兵士の戦死の知らせが残っている。

  死亡通報
明治参拾七年十一月二十八日清国盛京省旅順口方面ノ戦闘ニ於テ戦死
           埼玉県比企郡菅谷村菅谷九番地平民
           第七師団歩兵第二十六聯隊第三中隊
                 陸軍歩兵一等卒  高野満五郎
明治参拾八年弐月拾六日
             歩兵第二十六聯隊補充大隊長 坪井助太 印

 日露戦争のなかで難攻不落を誇ったロシア太平洋艦隊の軍港旅順の攻略は大変であった。1904年(明治37)8月19日からの第1回総攻撃、10月26日からの第2回の総攻撃、第3回の総攻撃は11月26日から行われた。12月5日に旅順を眼下に見下ろす二〇三高地を多くの犠牲を払いながら占領した。ようやくロシア軍は翌1月1日に降伏した。この死亡通知によると菅谷から出兵していた高野満五郎は、この第3回総攻撃の三日目に戦死したことになる。
 日露戦争に埼玉県下から召集された兵たちは、近衛師団と第1師団に配属され、その第1師団の一部は北海道を管区とする第7師団その他に配属された。戦死した高野満五郎は、この第7師団歩兵第26聯隊第3中隊に属して参戦していた。乃木将軍率いる旅順攻略戦いという最も激しい戦いでの壮絶な戦死であった。
 1905年(明治38)9月5日に日本はロシアと講和条約(ポーツマス条約)を結び、戦争は終わった。翌1906年(明治39)4月20日に第7師団旭川衛戍地*1で、日露戦争に参戦し戦病死した兵士の臨時招魂祭が開かれることになり、第7師団長男爵大迫尚敏*2から「故・高野満五郎殿遺族御中」宛てに招魂祭への案内状が来ている。さらに高野山本山においては、「国家ノ為ニ戦没セラレ誠ニ哀悼ノ至ニ堪ヘズ茲ニ今回当本山ニ於テ聊カ忠魂ヲ慰メン為」、1906年(明治39)5月8、9、10の三日間大追吊法会(だいついちょうほうえ)を行なうので参詣願いたいとの案内が「故・高野満五郎殿遺族御中」宛に来ている。

*1:衛戍地(えいじゅち)…駐屯地。
*2:大迫尚敏(おおさこなおはる)…乃木将軍率いる旅順攻略戦に第7師団の兵士を率いて参戦、二〇三高地攻略にあたる。この功績により陸軍大将に昇進。後に乃木将軍の殉死により後を継いで学習院長に就任。

 次に日露戦争従軍兵士の郡別の戦病死者数をあげておく。

        戦死            病死
    将校  下士卒   計   将校  下士卒  計   合計
北足立  6  200  206   1  120 121  327
入間   3  263  266   2  128 130  396
比企   2  116  118   1   50  51  169
秩父   —   97   97   —   57  57  154
児玉   —   79   79   —   27  27  106
大里   4  181  185   —   83  83  268
北埼玉  5  163  168   —   86  86  254
南埼玉  1  122  123   1  100 101  224
北葛飾  3  101  104   —   51  51  155
 計  24 1322 1346   5  702 707 2053
(『新編埼玉県史資料編19』より)

 日露戦争は明治時代に日本が行なった最大の戦争で、大国ロシアを破ったと評判になったが、多くの戦死者・病死者・負傷者が出た。そして銃後を支えた人びとも戦費の負担で苦しい生活をしいられた。また朝鮮はポーツマス条約で自国の事実上の支配権を日本に握られ、1910年(明治43)には日本の韓国併合で国の独立を失い、35年にわたる植民地支配を受けることになった。

このページの先頭へ ▲