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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第2節:戦争の記録

日露戦争と兵士の手紙

ここは御国(おくに)を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

 『戦友』(真下飛泉作詞・三善和気作曲)という軍歌は、日露戦争のときに作られた。この歌の13・14番はこうである。

13 くまなく晴れた月今宵(こよい) 心しみじみ筆とって
  友の最后(さいご)をこまごまと 親御(おやご)へ送る此の手紙
14 筆の運びはつたないが 行燈(あんどん)のかげで親達の
  読まるる心おもいやり 思わず落とす一雫(ひとしずく)

 日露戦争で戦死した嵐山町域出身兵士は10人で、平均年齢は25歳だった。うち6人は貫通銃創(かんつうじゅうそう)で亡くなっている。日露戦争では、ロシア軍が世界で初めて機関銃を使用し、戦闘による日本軍死者数は日清戦争の40倍にのぼったが、その大半は歩兵だった。
 鎌形の小峯嘉喜知さん宅に残されていた文書のなかに、23歳で戦死した小峯七五三(こみねなごぞう)の手紙がある。本人が東京竹橋の兵営から出したものや、戦地からのもの、戦友から親へのものも数通ある。分隊長となった小峯七五三は1904年(明治37)10月、遼陽(りょうよう)での戦いの後、奉天会戦前に清国盛京省沙河(しゃか)の戦闘で戦死した。故近衛歩兵伍長と彫られた墓石の裏に「辞世」の言葉が刻まれている。

捨つる身の名は武士(もののふ)と呼ばるとも
おやに先達つ道をしぞ思ふ

 徴兵以来故郷を離れ、除隊直後に出征して戦死したこの若者の「辞世」は、残された遺族の心でもあったのだろうか。
 戦死者には、明治天皇から金鵄勲章(きんしくんしょう)が授与されたが、遺族年金は階級によって1級〜7級まであり、大将の900円〜2等卒の65円とされていた。小峯七五三の親には70円が支払われた。水車大工の手間賃が1日38銭の時代であった。運搬を担当した輜重輸卒*1は年金の対象にはならなかった。生命の補償にも大きな格差があった。
 東京の兵営からの手紙のなかにチョッキと懐中時計を送ってほしいとある。『戦友』の8番に、

空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いて居るも情けなや

とある。

*1:輜重輸卒(しちょうゆそつ)…軍の糧食・被服・武器・弾薬などの運搬に従事した兵。

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