第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者
戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者6
私は大正14年(1925)に韓国の全羅南道で生まれました。そして16、17歳のときに、日本から来ていた大工さんに誘われて名古屋に来ました。しかし日本語はわからないし、何もなく、腹が減ってしょうがない。旅費がないが帰りたいと韓国人の世話役の人に連絡すると、協和会*1の役員がやって来て、せっかく来たのだからと鉄工場に世話してくれました。そこは三菱の下請工場でした。そこで働き、20歳のときに韓国に帰り、昭和20年(1945)の2月10日に徴兵検査を受けて甲種合格になりました。そのため、やがて徴兵の赤紙が来るのかと思っていましたが、いくら経っても来ませんでした。当時父は日本に来ていました。空襲が激しく、もし父がやられたら骨を拾わなければと思って私も日本に帰って来ました。父は群馬県の太田市にいたことがあります。そこから避難して埼玉の嵐山に来たのです。
私は嵐山ドライブインの裏の山の方の仕事はしませんでしたが、双葉のわきの方では仕事をしました。飯場の親方は日川でした。人夫頭です。モッコを二人で担いでドロを運びました。日川さんは見回りに来ました。何の工事かという話は全くなく、仕事だけやらされました。整地作業です。高い所のドロを崩して、低い田圃に埋めたりしての平地作りです。昼飯は、飯場の女性が作ってくれた弁当を食べました。田圃のセリをとって食べたこともあります。もう一つやった嵐山での仕事は、東武東上線の脇での整地作業でした。平沢と志賀の間を走る東上線の線路がおおきくカーブしている所の小川よりの場所で、線路の南側の所の整地作業です。山が線路まで迫っているので,その山の裾を平らにして、線路と同じ高さの平地をつくる作業でした。線路に沿って3〜4メートルの幅の平地を作ったのです。何のために作るのかは聞いていていませんでした*2。トラックが入るくらいの幅がありました。この工事をしているときに戦争が終わりました。
熊谷が空襲され*3、焼夷弾が落ちてきたのを覚えています。父と一緒に熊谷空襲を見ていました。焼夷弾で夜でも昼のような明るさでした。Nの飯場の畑にサツマイモの穴があって、父が私をその穴の中に入れて、父がその上にかぶさり「死ぬなら俺が先だ」と言ったのを覚えています。
【1998年5月6日、話者:嵐山町菅谷N・I氏(1925年生まれ・73歳)、聞き手:石田貞】
*1:戦時中に在日朝鮮人を管理・統制した組織。すべての在日朝鮮人は各警察署管内ごとに組織され、警察署長を会長に、特高課内鮮係りを幹事とする協和会支部に組み込まれていた。
*2:平沢・志賀の地区で建設する半地下工場の資材を下ろし、トラックに積み込むためにつくったものと思われる。
*3:1945年(昭和20)8月14日午後11時30分頃から15日未明にかけて行われたB29による熊谷空襲。埼玉県下の空襲で最も大きな被害を受けた空襲である。