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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者5 目撃者の証言

昭和21年元日に復員した

 平沢には何百人も朝鮮人がいたというけど、私が復員したときはほとんどいませんでした。工事をやっているとき私は戦争に行っていました。昭和17年(1942)1月10日に入隊しました。復員したのが昭和21年(1946)1月元日の朝帰りました。まる4年間でした。南大東島にいましたから、わりと早く復員になりました。帰ってきたときには朝鮮人は大体引き揚げて、幾人かが残っていました。

平沢のあちこちに朝鮮人が泊まっていた

 この辺の農家の物置とか不動様とかお寺、それにH・Uさんの家、昔は種屋をしていましたが、部屋がいくつもあったのでそこにたくさんいたそうです。平沢寺(へいたくじ)にも庫裏(くり)が空いていたのでおそらくいたと思います。不動様の守り神はお犬様で2頭いたので、朝鮮人がそれを怖がって縁の下に入り込んでしまったといいます。本尊様の両脇に2体の犬がおりました。人間くらいの大きさで、赤と黒の二体でした。そこに泊まったのです。そこをみんな飯場と言っていました。

工事の総監督今野さんが家に泊まっていた

 私の家の離れには今野さんという監督の人がいました。うちの母が朝飯だけをつくって出していました。朝飯だけでいいから、麦飯でなめもので結構だと言うので出していたといいます。私は復員してきて、母が朝飯を出すのを見ています。米の飯など終戦後ですから食べられなかったのです。帰ってきたとき今野さんはまだいました、今野さんは朝鮮人労働者の総監督の地位だったようです*1
 今野さんは一人で来ていました。家族は新潟です。今野さんが、この米を新潟に運んでくれないかと言うので、小林さんと二人でリュックで背負って持って行ったことがありました。復員して間もなくのことです。今野さんは、戦後も幾年もいました。残務整理でしょう。

半地下工場の跡

 朝鮮人を使ってやったことは裏の方の半地下工場の建設です。道路を造って山と山の間を切り取って、そこに造ったのです。今も昔の面影はいくらかありますが、木が生えてきて分からなくなりました。私が復員した時にはまだ裏に半地下工場の建物が一棟ありました。基礎コンクリートをうって上に木造のかまぼこ型の屋根を造ったものです。鉄工場の裏に入ったところにありました。双葉に行く道のすぐ左側です。私が復員で帰ってきたのが元日の朝で、部落の人たちがぞろぞろ来るので、「なんだい」と聞くと、あそこに半地下工場ができたけれど、終戦でいらなくなったので部落でもらった。それで元日に新年のあいさつのあとみんなで見に行ってきたと言うのです。地元ではその木造の部分をもらって解体して,タバコ屋のてまえの消防小屋を作ったのです。志賀も建物の残りをもらい、小さい集会所のようなものを作りました。双葉(ふたば)のフェンスとの境に作りました。コンクリートの基礎が残っている頃、滑川高校の生徒を案内したことがあります。道の両脇にコンクリートがうってありました。下から1メートル位の高さにね。中はくつ石みたいのがうってありました。コンクリートは今のようないいものではないので、大きいハンマーで叩くと壊れました。機械はまだ全く入っていませんでした。半地下工場の大きさは、間口が5間くらい、奥行きは10間くらいだった気がします。こういう形のものはずいぶんありました。出来ていたのは、モーテルの所、双葉のフェンスの境の所などです。この辺は道の両サイドが山で、そこを切り開いて工場を造ったのです。トラックが入れるように道を造り、谷間、谷間に工場の敷地を造ったのです。
 トンネルは平沢の第二区で10メートルくらい掘り込んだトンネルがあります。そこは私の地所です。あの団地が出来るときに売ってしまいました。
 志賀の祖父が入(じじがいり)は、コンクリート打ちはまだ始まらなかった。道路は造って、谷間、谷間に工場を造るように整地をした段階です。変電所を造る予定でした。沼の所の道の両側に飯場がありました。どういう人がいたかはわかりませんが、私が復員して来たときには小笠原から疎開してきた人が入っていました。大工さんみたいでした。飯場は板張りのもので屋根はトタンでした。生活するのがやっとのものでした。
 沼の所のところにあった飯場が、鐘ヶ淵の地下工場つくりの事務所があったところです。ドライブインの手前の小さな掘りの手前、今栗の木の植えてあるところです。

買収されていた土地が戦後返還された

 私の家は、ずいぶん広い場所が戦争中に買収されましたが、戦後そのまま返還になりました。モーテルのあった所なども、道に面した所を使っただけです。あとは畑のままでした。作付けした所を買収しても、まだそのままでした。道路に使った所は別ですが、畑は手付かずでした。少しも荒れてはいませんでした。食糧増産ですから荒らすどころではありませんでした。

【1996年9月5日、話者:嵐山町平沢H・M氏(1923年生まれ・73歳)、聞き手:石田貞】

*1:実際は鐘淵ディーゼルの疎開工場建設を請負っていた鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所の工事責任者だった。

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