第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者
戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者3
私の娘が1年と3ヶ月で亡くなり、葬式をしたときの「貴美子葬式控」があります。それを見ると朝鮮の人も多数来てくれたのが分かります。
私の家の裏に神中組の三組の飯場がありました。金山、真山、立川の飯場です。公会堂にも朝鮮人が泊まっていて、安田文太郎さんが親方でした。私の家は一間を安田さんに貸していました。そこに安田さん夫婦と双子の子どもの4人がいました。安田さんは、食事は私たちとは別にしていました。外に下屋を出して、そこで炊事をしていました。風呂はうちのを使いました。飯場の人は公会堂でやっていました。それらの割り振りは役場とおまわりが来て強制的でした。その他、お寺、公会堂、大きい家は半強制的でした。家賃は、私のところは親方が入ったので月50円でした。他よりいくらかよかったようです。金寧武弘は公会堂の南に突き出したところに住んでいました。岩本周吉は河井信太郎さんの家にいました。村上仙太郎は隣の内田与一さんの家にいました。神中組、林飯場、金山相駿、公会堂の平沼健次郎、この人は安田の部下です。安田飯場一同、真山飯場の白川與捨、真山又英、これらは同じ飯場です。
これらは葬式に来てくれた人の飯場名や朝鮮人の個人名です。娘の葬式に多くの朝鮮人が来てくれたのです。当時、平沢では大きい家、平沢寺(へいたくじ)、不動様、公会堂などに朝鮮人が泊まっていました。
結局、立川、真山、金山の三人が神中組の親方で、飯場を持っていました。米など、幾人いるのかわかりませんが俵で運んで来ました。立川は飯場が奥だったのであまり付き合いはありませんでした。平沼健次郎は安田の従業人で、よい人でした。安田さんは私の家に泊まっていましたが、神中組ではなかったようです。安田さんの方が早く先に来ていて、幾月か経ってから神中組が来たのです。
神中組の元は小川町にあり、そこから三つの飯場の人たちが来たのです。平沢に半地下工場をつくりに来た人たちより、神中組は3ヶ月くらい遅れて来ました。したがって平沢の谷津で工事をしている藤本さん【平沢の谷津で半地下工場の建設を仕切っていた朝鮮人】などとは別でした。公会堂には10人くらいいました。
仕事の現場は平沢二区のトンネル掘りで、コミュニティセンターの向こうの工事場です。やがて地下トンネルを掘り、志賀の方からも掘ってきて、つなげる予定だと思います。公会堂の人たちは向こうから、神中組はこちら側から掘り、こっちの方が工事は進んでいて、やがてトンネルを掘るというときに戦争が終わってしまいました。志賀の方にも朝鮮人はかなりいました。工事ではトラックは全然使っていません。トロッコの線路を引いて運び出していました。
志賀の高橋材木屋の谷津にもトンネルがあると聞いています。神中組が飯場を造る時の材料は志賀の高橋金造さんの親父さんの所からのものもありました。
飯場は、田圃に金山飯場、その後ろの山を切り開いたところに真山飯場、その後ろに立川飯場とつくられました。飯場のところには井戸も掘りました。各飯場に何人くらいいたか、10人から多いところで20人くらいいたと思います。米の配給は小川町から2俵か3俵積んできました。飯場は、間口が6間くらい、奥行き3間くらいはありました。中は大部屋ですが、世帯持ちは区切ってありました。三つの飯場とも朝飯を食べて、8時か8時半にぞろぞろ穴掘りなどの仕事に出かけるのをよく見ました。昼は食べに来て、1時頃にまた仕事場に帰りました。話してみるとみんないい人でした。根っからの土方の人は少なかったようです。東京あたりからやむをえず来た人が神中組には多かったですね。世帯持ちも3、4組いました。
戦後、安田さんたちは早く帰って行きました。安田さんは30歳くらいでした。
【1996年9月9日、話者:嵐山町平沢W・U氏(1916年生まれ・80歳)、聞き手:石田貞】