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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者2

私は一緒に仕事をした

 でずらの仕事

 私は土方仕事をしている朝鮮人相手に出面(でずら)の仕事をやりました。これは働きに出てくる人数の点呼をする仕事です。その工事で何をつくるのかはよく分かりませんでした。藤本という親方がいて、その下に班長クラスの配下がいて14、15の班に分かれ、1班は15人〜25人くらいいました。班長は飯場頭です。朝鮮人労務者の人数の点呼は移動が多いので何人かよく分からないので、私は飯場ではなく仕事の現場を回って今日は何人出しているかと点呼しました。一か所が15人から20人くらいの人数でした。しかし朝鮮人労務者の全体の人数は、移動が多いので何人いたかはよく分かりませんでした。そして働いている人は、どんなものが出来るかは知りませんでした。
 一般の朝鮮人人夫はほとんど朝鮮名でした。だからでずら係りとして点呼をとっても、一度として数が合うことなしですよ。顔は分からないし、名前も分からないからなのです。二通り名前を持っていましたからね。それでこんなこと出来ないと私は「でずら」の仕事は1週間でやめて、その後は食糧の配給をとりに行ったりしました。通帳を持ってとりに行くのです。朝鮮人だけでは言葉が通じないので、私が引き連れて行きました。食糧の配給では二重の名前で余計もらったりしました。タバコも配給でした。それからモッコ、ロープ、などの世話役をしました。天秤棒なども作りました。モッコが壊れたり、ロープが足りないとかするので、現場を回ってそういうものを用意してやったりする方の仕事にかわったのです。

 平沢の谷津で半地下工場の建設

 平沢の谷津だけで工事の場所は変電所を入れて6ヶ所です。半地下工場をつくると言っても、やったのは山の斜面を崩して平らにして、約1メートル位の高さまでコンクリートをうち、その上に明り取りの窓をつけ、その上に屋根を乗せる半地下式です。整地の仕事は全部朝鮮人でした。朝鮮人が使った道具は、エンピ、トウグワ、ツルハシ,ジョレンなどでした。
 その後大工が入ってき、材料を持ってきました。大工は日本人でした。これらの材料は、戦争が終わってから地元にくれたのです。それで煙草屋のこっちの消防小屋などを作りました。

 工事の總責任者は今野さん

 鉄筋コンクリートの責任者の今野さんは、日本の会社の總親方(鐘淵ディゼルの疎開工場建設を請負っていた鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所の工事主任今野東一郎)でステッキを持って見て歩いていました。単身で来ていました。今野さんは現場の親方連中に一番はぶりをきかせていました。その下で藤本がやっていたのです。夏山などもその配下でした。今野さんは平沢の村田治夫さんの離れに一人で泊まっていました。私は今野さんとも付き合ったけれど、仕事関係の話はしませんでした。鐘淵ディゼルという言葉は聞いていましたが、ディゼルエンジンを作るということは聞いていません。ただ軍需工場をつくるということだけです。昔は、そういうことは秘密で公開しませんでした。しかし憲兵がたまには回って見に来ました。

 平沢の上原団地、千手堂、東昌寺の団地のところにも工事

 陣中組は内田和一さんの家に泊まっていました。しかしここには来ないで平沢の上原団地や千手堂の方で仕事をしていました。そこも木を切って工場の敷地を造っていました。東昌寺の団地にもいくらか機械を入れました。東昌寺の裏には当時のコンクリートが残っているようだが、あそこは平坦地なので早く工事が行われ、機械がいくらか工場に入りました。うちの方は工事が間にあわず、機械を旧道に置きました。

 双葉の工事現場

 双葉の谷津には飯場はないけれど,半地下工場の現場がありました。6ヶ所ほどです。そこも藤本がやりました。双葉は志賀分です。双葉の敷地は高くなっていますが、もとはもっと低くて、山を崩して整地したものです。そこにコンクリートを打ちました。工事は双葉のところが一番進んでいて、コンクリート道までやりました。ここへは荷物が入るときにトラックで持って来ましたが、あとは東上線で運んで来て、途中で降ろしたといいます。

 朝鮮人は主に寺、公会堂、民家に泊まった

 平沢では朝鮮人をめぐっての事件は何も起こりませんでした。区長から話もあって警戒はしていました。地元の人は警戒して、日暮れになったら女の人は一人歩きをしませんでした。区長の斡旋(あっせん)もあって朝鮮人は農家に泊まるようにしていました。飯場生活ではなく、寺、公会堂、民家などに泊まりました。朝鮮人の場合、家族持ちの人は飯場にいましたが、それは親方たちです。子どもはその親方の子どもでした。人夫の家族持ちはいませんでした。平沢寺(へいたくじ)とか飯場では食事をつくっていましたが、やったのは親方の奥さんたちでした。人夫はみんな若い人で20から30代の人でした。飯場頭(はんばがしら)は50代の人もいました。
 一番大勢いたのは平沢(ひらさわ)の種屋(たねや)です。それから平沢寺が無住ですから、その本堂と庫裏(くり)に泊まっていました。上の不動様にも泊まっていました。平沢寺に30人〜35人くらい、種屋にはもっといました。個人の家には7人〜8人くらい泊まっていました。仕事は朝7時〜夕方5時までやっていました。それ以上は残業でした。明るいうちは電気をつけないで、そのままやりました。年齢は20歳〜30歳代の人で、年をとった人は頭です。

 言葉の問題

 朝鮮人がどういう形で来たのかは聞いたことはありません。言葉は朝鮮語をしゃベっていました。しかし片言でもこっちで言うことは通じていました。朝鮮人同士でしゃべっていることは、私たちには分かりませんでした。ただ先にたつ朝鮮人は日本語が上手(じょうず)でした。親方たちは、朝鮮語で仕事の指図をしていました。そして私たちとは日本語で話しました。したがって通訳はいなくても親方とは話は通じていました。藤本や夏山などは、みんな日本語がうまかった。全く出来ない人は半分くらい。あとは片言でした。

 朝鮮人のリーダー藤本さん

 藤本などは全く訛(なま)りもなく、日本人といっても分かりませんでした。娘たちも日本の学校を出てました。藤本の一番の親方は広田といい、日本の高校まで出ていて、お不動様の演芸の時ときなど彼が出ると、人夫たちが『朝鮮大統領!』などと言ってはやし立てましたよ。藤本の妻は日本人です。藤本はあれだけ話せるから日本へ来てかなり経っていたと思います。ただ字は分からなかったようです。字を書くのを見たことはありません。なんといっても広田という人が、全部難しいことはやっていました。
 藤本は最初私の家に住み、親も一緒でした。やがてこの先に家をつくって住みました。分家の物置と飯場に朝鮮人はかなり住んでいました。
 私は、東京に勤めていましたが、藤本さんに「東京へ行くだけの金を払うから仕事を手伝ってくれ」と頼まれて、1日10円でやることになりました。普通は、せいぜい5円でした。朝鮮人はいくらであったかは分かりませんでした。私が仕事を手伝うようになったのは、藤本の仕事が始まってすぐでした。私はその年の6月16日に入隊しました。
 藤本さんの組は朝鮮人だけでした。日本名を名乗っていても全部朝鮮人です。二人ほど日本人の奥さんの人がいます。藤本の下に、金山、金田、新井、山本、木村、綿貫などがいました。日川は志賀の方にいました。種屋にいた新井ははしこくて、世話役をしているだけで仕事などしたことがありません。藤本みたいな親方がもう一人いました。藤本の配下の朝鮮人は百穴へも行ったり来たりしていました。仕事が大変で逃げ出した人はいませんでした。
 私みたいな日本人は他に5人くらいいました。しかし現場で仕事の監督などはしていません。現場では藤本の下にいた広田とその弟が仕事を仕切っていました。広田は日本の高校を出た人で、26歳が27歳くらいでした。
 戦争が終わると工事はすぐストップです。戦争が終わり、2月ほど経つと朝鮮人はめっきり減りました。嵐山に残ったのは、八丈、小笠原、父島などから来ていた人です。そういう人はもとは魚とりだったようです。

【1996年7月25日、話者:嵐山町平沢O・Y氏(1923年生まれ・73歳)、聞き手:石田貞】

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