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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者1 平沢と志賀地区

 1941年に始まったアジア太平洋戦争は、半年後にはアメリカ軍の反撃開始で戦況が悪化し、アメリカ軍の攻撃が日本本土に迫ってくるなかで軍需産業の疎開工場が各地方に建設されるようになった。比企地域では丘陵を利用した地下工場、半地下工場、地下壕の建設が行われた。

「半島出身労務者転入」のため食糧増配要請

 嵐山地域について見てみよう。戦時中の食糧は配給制であった。当時の菅谷村役場文書「昭和二十年 米穀配給ニ関スル指令綴」を調べると、その中の「三月分食糧要配者臨時追加配給申請ニ関スル件」の文書に、「時局重要施設ノタメ半島出身ノ労務者転入」という記述が出てくる。人数は「労務者一ニ九人」。これは菅谷村長根岸久一郎が比企地方事務所長に出した文書で、軍需関係の疎開工場建設のために朝鮮人労働者が導入されるので食糧増配を要請したものである。二日後の三月十日にも同じ事由の追加申請が出され、その備考に、「事由ハ平沢工場建設労務者(土工)ノ転入ニ付為念」と記され、「労務者一○○」と。さらに三月二十四日にも同じ理由の追加申請で、「労務者一九七人」と記されている。こうした記録から、戦争最後の年である1945年春から、朝鮮人労務者を続々と導入して平沢地区と周辺に軍需関係の疎開工場建設が本格化していたことが分かる。

鐘淵ディゼル工業の疎開工場の建設へ

 この疎開工場は鐘淵ディゼル工業であった。川口市に本社があった。この会社は1935年に操業を開始した日本ディゼル株式会社で、船舶用ディゼル・エンジンの生産を行なっていた。やがて鐘淵紡績株式会社(鐘紡)の傘下に入ったため、1942年鐘淵ディゼル工業株式会社と社名を変えた。当時日本はアジア太平洋戦争に突入していたので、海軍の船舶用エンジンを製造する任務を負うようになっていた。戦争開始後、早くも川口市の本社は1942年4月18日にアメリカ軍航空母艦からの艦載機の空襲を受け、即死5名、負傷54名(内病院で7名死亡)軽傷41名の被害を受けていた。東京の鐘紡東京工場(墨田区)も1945年3月10日の東京大空襲以後大きな被害を受けるが、その直前から嵐山地域への疎開工場建設の動きが始まっていた。疎開工場の建設は非常に差し迫った戦況の中で始められたのである。同年5月27日に菅谷の工事現場で地鎮祭を行なう旨、ディゼル工業の社長城戸倉吉から菅谷村村長に文書が送られている。

 この疎開工場の建設を請け負ったのは鉄筋コンクリート株式会社(本社は東京日本橋)で、菅谷には出張所が置かれた。次のような文書が残されている

       証明書
住所  埼玉県比企郡菅谷村大字平沢五一番地
     氏名   大正五年十月二十五日生
            大野喜正
右【上】之者海軍施設本部指令ニ依ル鐘ヶ淵ディゼル工業
株式会社疎開建設工事従業者ニシテ、弊社常雇人夫
トシテ四月一日ヨリ出勤セル事ヲ証明ス
 昭和弐拾年四月八日
      埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷
      鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所
       工事主任  今野東一郎 印
 菅谷村役場御中

 この文書から鐘淵ディゼル工業の疎開工事が海軍施設本部の指令によるもので、工事は鉄筋コンクリート株式会社が請け負っていることが分かる。

 疎開工場の建設場所は平沢から志賀にかけての松林の中で、丘陵の麓を少し掘り下げて上に屋根をつけた半地下の工場であった。そのときの基礎コンクリートの一部が今も残っている。

 さらに上記の「昭和二十年 米穀配給ニ関スル指令綴」のなかに、「事業場及疎開工場転出入表」(菅谷村)がある。5月から7月までの団体名(疎開工場名)と、労働者の転入・転出・合計などの数が記入されている。

事業場及疎開工場転出入表(菅谷村)
月別団体別転入転出差引増前月末数合計人口
5月旭光学5325456
鉄筋コンクリート2343120312661469
23934 205 13201625
6月旭光学10465662
鉄筋コンクリート3948331114691780
鐘紡工場2135208208
6179252515252050
7月旭光学3216263
鉄筋コンクリート25914511417801894
鐘紡工場742154206259
神中組180180 180
51616834820502398

 表中の旭光学はレンズ研磨の会社で、疎開工場として造られるたようであるが、表の労働者「前月数54」人は4月の数を示しているので、その後の5,6,7月はわずか増えているだけである。それに対して鐘淵ディゼル工業の建設を担当している鉄筋コンクリートは前月(4月)末数には1266人、5,6月で続々増えて7月には1894人になっている。鐘紡工場関係は6月から213人,7月74に計259人で、これは鐘紡工場の関係者が疎開工場の現地にやって来たことを示していると思われる。陣中組180人は7月だけであるが、朝鮮人と日本人が混ざっていて鐘淵ディゼル関係の工事に携わったといわれている。したがって旭光学以外は鐘淵ディゼル工業の疎開工場建設にかかわっていた。こうした態勢で鐘淵ディゼル工業の疎開工場の建設が急ピッチで行われたが、具体的なエンジン生産の始まる前に日本は敗戦を迎えた。

朝鮮人労働者の数について

 この鐘淵ディゼル工業の疎開工場の建設を担当した鉄筋コンクリートの労働者は、食糧増配要請の文書の記述から分かるとおり朝鮮人労働者であった。その人数については、増配要請文書に記された人数から実際に働いた朝鮮人の数を推測することは出来ても、正確に知ることは難しい。というのは、配給量が少ないため人数の割増請求が行われていたからである。すでに朝鮮人労働者の導入以前に、埼玉県経済第一部長は県内の各町村長に対して、「主要食糧配給上ノ不実在人口の整理並ビニ移動人口ノ適正把握ニ関スル件」という通達を出して、「所謂幽霊人口ヲ認メ得ラルヲ以テ此ノ際之ガ徹底的根絶ヲ期スルコト」を指示している。これは日本の職場家庭を対象にして出したものであるが、当時の食糧事情は切迫していた。朝鮮人に対する食糧配給も量が少ないので、どこでも割増請求がなされていた。したがって食量配給要請の人数で朝鮮人労働者の数を正確に出すことは難しい。

 しかし、菅谷村役場に残された「昭和二十年 諸証明簿」「昭和二十一年 諸証明簿」(転出、死亡、印鑑、居住などの証明書発行簿)によって戦争終結直後の朝鮮人の移動状況を知ることが出来る。朝鮮へ帰る場合は「証明簿」に「帰鮮」と記されている。それによると、戦争終結の翌日昭和20年(1945)8月16日以後昭和21年3月18日までに旧菅谷村から転出した朝鮮人は1596人(その内訳は日本の他の地域が618人、朝鮮への帰国が878人)、3月18日に菅谷村に残っていた人が141人。これを合計すると1737人になる。この数は戦時中に平沢・志賀を中心にした旧菅谷村地域で働いた朝鮮人の数を考える場合の手がかりになるものといえよう。なお、この3月18日というのは埼玉県が最終的に朝鮮への帰還希望調査を行った日である。

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