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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

従軍看護婦として中国で働いて

     中支派遣登一六三四部隊日赤本部班 小沢スミ*1

 昭和二十年(1945)一月四日召集。この召集令状をもって東京都芝区芝公園五号地日本赤十字社に出頭すべしとの召集令状、赤紙を受け取りました。隣組の人達が集まってお米で作ったお酒ドブロクをのんでお祝いをしてくれました。春日神社に参拝して明覚駅まで送ってくれました。同級生二人が高麗川まで送ってくれました。
 日本赤十字社(日赤)本社についた。婦長と二十名一組、東京駅から汽車にのり下関についた。関釜連絡船(かんぷれんらくせん。下関−釜山)にのりました。玄界灘に近づくと救命胴衣を持って集合との部隊長の声にみんな走りました。波もおだやかで無事に過ぎました。
 それからどう行ったか、朝鮮、満州、北支に入る。ここが国境かなと思った。行く先はわからない。向うの人がここはホコウって云う所だよって言った。揚子江を渡ると南京だよと教えてくれた。私達は南京に行くのかなと思った。船で揚子江を渡って第一陸軍病院についた。そこには日赤本部班は居るから私達は第二だよと言われ、ようやく南京第二陸軍病院に着いた。紫金山のふもとでした。
 そこは廣い病棟でした。結核病棟、外科、内科、伝染病棟でした。私達はそこでそれぞれの科に別れました。私は伝染病棟勤務を命ぜられました。熱が高くて脳症を起してわめいて居る患者さんも居ます。腸チフス、赤痢、アメーバー赤痢の患者さんが多く居ました。オムツ交換が一番大変でした。クリークの氷で熱の高い患者さんを冷しました。

   淋しげに唯淋しげにひびくなり夜間のしじまに氷かく音

 クリークの冷たい水で洗たくをしました。先生は三人、毎日忙しく診察をして居ます。
 やがて春がきておタマじゃくしも出てきました。

   クリークのオタマじゃくしを手に取ればほのぼのこいし前髪の頃

 大きなかごをかかえて薬室へ通いました。患者さんが体温計をこわすと始末書をかかせられ叱られました。

   今日も又我通ふなり薬室へ

 何度(いくたび)ともなく朝早く飛んで行く飛行機は内地に空襲にゆくのかも知れないと不安な気持で心配になりました。
 天津についた患者さんを船で揚子江を担架(たんか)でかついで護送しました。その帰り、みんなでトラックがくるまで思い出の唄など歌って故郷を忍びました。また病院に帰り、忙しい看護が始まりました。
 八月十五日熱い日でした。私達は患者さんの看護の合間をみて廣い草原でベッドを作る為カヤを刈って居ました。すると全員集合の部隊長の声。それは悲しい敗戦の知らせでした。みんなだきあって泣きました。敗戦となると向うの態度ががらりと変り、亡くなられた兵士達を外の火葬場までつれて行く事が出来ず白木の箱で家族に届ける事が出来なくなりました。悲しいことに髪の毛と爪位しか家族に届ける事が出来ませんでした。仕方なく部隊の中に大きな穴を掘って一人ずつかごに入れて安らかに眠ってもらいました。
 九月になって私達は上海青葉病院にうつりました。そこで患者の看護をしながら帰る日を待ちました。やがて帰国命令が出て私達は汽車にのりました。貨車に荷物をのせました。出発前になると向うの人達が貨車の荷物を盗(と)りにきました。長い棒やひっかけるカギを持って迫ってきました。私達は貨車の周りに立って荷物を守りました。出発前、荷物が盗(と)れなくて、石など色々な物が投げつけられました。けがをした人もいました。
 帰り道、広い所で荷物の検査がありました。イイダ桟橋についた連絡船に乗り、その夜出発した。甲板に出ると見渡す限りの海ばかり。カモメだけがすいすいととんで居るだけで何も見えない玄界灘(げんかいなだ)も波もおだやかでよい航海でした。
 四日目、ようやく博多につきました。あゝ日本の子供がいるとほっとしました。又汽車にのりました。行く時はきれいだった広島の町も、帰りは見渡すかぎりの焼け野が原と変っていました。原爆のおそろしさを知りました。私達は十二月末それぞれ別れをつげ家に帰りました。
 六十年たった今、部隊の中に残してきた兵士達。戦後の遺骨回収員の手で無事に故郷へ帰り、安らかに眠って居る事と思います。
 戦争のない平和な世の中が続きますやう祈って下さい。
 本当に御苦労様でした。有難うございました。

*1:小沢スミさん(旧姓・根岸)は玉川村(現・ときがわ町)玉川、和田に1924年(大正13)2月生まれた。これまで保存していた日記などを2009年に筆写し提供された。その文章を原稿とした。

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