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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第1節:戦争体験記

夫戦死後の私の一生を振り返って

                菅谷 水野今子

 夫は大阪府警察部衛生課に勤務していました。召集令状が来たのは昭和十四年(1939)十一月の半ばでした。当時私は産後風邪をひき肺炎から肋膜に水が溜るという九死に一生の病後で、子供は私の母が一切世話をしていました。夫は近歩二に入隊してから一回帰宅しただけで、中支へ。そして南支から仏印へ。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争が始まると同時にマレー半島を進撃し、シンガポール陥落の前日昭和十七年(1942)二月十四日戦死しました。
 昭和二十三年(1948)春頃に遺族会が出来るから婦人部長になるようにと話がありました。戦地へ送る時は銃後は心配するなと言って見送ったのにと遺族の現状を思うと、これではひどい。皆で国に訴えたいと思っていたので、引き受けました。今は次のことを国の為政者に御願いします。
 八月十五日終戦記念日の公式参拝の実施、戦争は悲惨で無益なことを語り伝え、地球の平和を守ってゆくことを。

かかる朝夫は征でたりプラタナス軍靴の如き音を立てて散る
夕映えの山の彼方に幸ありと信じて待ちぬ夫征でし後
沈丁花ほのかに匂ふ午後なりし戦死の内報手紙にて来ぬ
赤き服着て父迎ふ筈の子が白き服着て遺骨を持てり
乏しき服教材買はぬ生徒等の父は戦死とふ国の扶助なく
初めての大会なりき木炭バスで熊谷市まで往復せしは
陳情に行きて議員にいたはられ声あげ泣きし妻たちも老ゆ
祭典の終らぬ中に帰り来し道に落花の雨に流るる
我と共に帰り来ませと語りかけ異国の墓碑に水を注げり
絵をかくを好みし夫は戦地にて他国の景色クレパスに残せり
大学の卒業アルバム数年後いくさに死すと誰か思ひし
トランクの中整然とおかれゐるマレー戦線へ向ふ前夜か
終戦後半世紀経ぬ戦争を知らぬ世代の片隅に生く
戦へる国の未だあり我が国は憲法九条守り抜くべし

『想いあらたに —終戦50周年記念誌—』(埼玉県遺族連合会・埼玉県傷痍軍人会・埼玉県軍恩連盟, 1995年8月15日)
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