第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
越畑 福島和
連日連夜の空襲警報で肉体的に特に精神的にくたくたと綿のようにつかれた体を、あの夜もすぐ飛び出せるようにズボンをはいたまま、巻脚絆を巻きつけたまま、うとうとするうち空襲警報のサイレンの断続的なウウーウウーウーに、ああ、またかと云うようなすてばちな気持のうちに、ねぼけまなこで反射的に飛び起きる(当時は夜は電灯を全部、布でおおいをして真下でないと本も読めなかった)。灯を消してあるのだが暗さには目は、なれていた。身支度を整えながらラジオに耳をそばだてる。
当時はラジオの性能は敵に電波をキャッチされないようにとかで厳しい電波管制がしかれていて音、感度も最悪でブツブツといったような雑音の中に「ガー東部軍管区情報、東部軍管区情報、敵B29何機は……」と聞き終わらぬうちに何時もとは違ったあわただしい雰囲気の中にドドドドーンという爆発音と共にあたり一面が急に真昼のように明るくなった。
急いで家の北側の防空壕(どこの家でも当時は必ず一つは防空壕を掘らされ、この中にちょっとした衣服や非常食糧を入れてあった)に飛び込む。それ迄は一度も壕に入らず遠くの空襲で燃えている光景を近所の人々と共になんだかんだと噂しながら眺めていたが……。続けざまにゴーッというものすごい爆音と共に(多分B29が相当低空から爆撃したのだろう)、壕のわきに作付けてあった唐もろこしがザザザーッと横になびく。雨が降っていたような気がしたが、急にガソリンの匂いが強く感じられる。真昼の如く青白く、そしてゆっくりとあたりを照らしながら落ちてくる閃光弾。三〇乃至五〇平方米に一本位づつと考えられる。油脂焼夷弾が次から次と落下し、家々の屋根をつきやぶり、丁度床の上で止まり、またたく間に、燃え拡がる。当時私は敵の心神経戦略であると知らされていた。連日の本土襲来にすっかり神経が疲れ果てて(襲来する時間は人々が丁度寝込む一〇時頃あたりから)、すべての感じ方がなんとなくにぶくなってしまったのか、しばらくの間、身の危険も考えず燃え広がる光景を見まわしていた。
その中に家の南へ二軒目の家だったと記憶するがガラス戸越しに床のまん中に焼夷弾が一本、それこそ発煙筒のようにもえ始めているのを発見。家の前に積んであった砂袋をいくつか投げつけてみたが効果がなく、バケツで水をかけて見たが全然消えるどころか、ますます火勢は強まるばかり(当時は隣組、班単位で防空演習が毎日の如く行われていたが、若い男は勿論、男という男はほとんど見ることはまれであった。今回は前の○○さん、次の日は横の誰々さん、それも体格が誰が見てもとうてい兵隊さんにはなれないと思われる人にも召集令状が来て日本の窮状をまのあたりに見る状態であった。故に女、子供で主に行われた。時たま憲兵が視察に来て何かと注意していた。又毎戸強制的に貯水槽、バケツ、砂袋を備え置くことが義務づけられていた)。そのうちに家の人の呼び声で初めて危機感を憶え、布団をかぶり、有明荘の裏、桐の木のそばの壕に避難した。
その時に雨がふっていたのか?服と布団のぬれていたのが避難する途中、まわりの焼ける熱で乾いていた。又有明荘のわきで若い女の人三、四人バケツで一生懸命ハシゴを使い、チョロ、チョロもえ始めていた火を消していたのが思い出される。壕の所は、表通りから約五、六〇メートル離れた処で、ついたとたん左足がづぶりと土の中へ、とたんに「あゝっ」声が下から聞えた。壕のそばには一二、三人位だと記憶する。
又多分弁天町あたりの人だと思うが、子供の「母ちゃんがいないよう、いないよう」と泣きわめきながらもえさかる方へ行こうとするのを「大丈夫!後でみつかるよう!必ず見つかるよう!」と無理に引き止めていた声が今も耳にこびりついて離れない。
それと現在の八木橋の右よりあたりと記憶するが、まるで仕掛花火のようにくっきりと鮮明に屋根の形もそのままにすべて骨だけが赤く燃えさかり、ものすごくきれいであったことが眼の底に焼きついていて忘れられない。悪夢のような一夜もこれ以外のことは全然記憶にのこっていない。
八月十五日、あの日は昨夜の出来事をまるですっかり忘れたかのように晴れ渡った。そして真夏の太陽がじりじりと照りつけあたり一面すっかり焼け野原と化し、鎌倉町から熊谷駅の一部が良くみえ、そしてガチャンポンプだけがニョキッと取残され、これからはき出た水の冷たくうまかったこと。家の裏にある桐の木にどこから来たか蝉が我が世とばかりミンミンと鳴いていたのが印象的であった。
正午過ぎ、誰とはなしに陛下の玉音放送で戦争が終った。アメリカ軍がやって来て皆殺しにされてしまう筈のデマが伝わったが、何かほっとした気分であった。
艦載機P51一機がものすごく低空で飛んできて飛行帽をかぶったアメリカ兵の姿がはっきり見えたのを茫然と見送ったのを憶えている。
数日後荒川へ行ってみると、五、六平方米に一本ぐらいづつ焼夷弾の、又わけのわからぬ金属の破片があたり一面に散らばっていた。これらを町の中にまともにうければおそらく熊谷市も全滅であったに違いないと思った。自転車のパンクをはるのに油脂焼夷弾の生ゴムをひろって来るのだといっては、危険をおかして拾いに行った人もいた。
あれから三〇年、整然と区画整理され近代的なビルの立ち並ぶ大都市熊谷から戦災の姿を見出すことはむづかしいが、これまで断片的に思い出すままに綴って来た戦災の体験を我が子、現代の人々にとっていくらかなりとも参考になり、再びこのような悲惨な歴史をくり返さないよう御役にたてば幸いである。
熊谷市文化連合発行『市民のつづる熊谷戦災の記録』(1975年8月刊)316頁〜318頁より作成。筆者は1928年生まれ。当時、熊谷市鎌倉町四丁目在住。1945年(昭和20)3月、熊谷商業を卒業、東京製綱(株)熊谷工場の試験部に勤務していた。